橘井堂 佐野
2020年12月22日

出口典雄さん、ありがとうございました

劇団シェイクスピアシアターの演出家、出口典雄さんが12月16日、入院先の病院にて誤嚥性肺炎により亡くなられました。
享年80歳。
出口さんと最初にお会いしたのは1974年4月。
荻窪駅北口、京王ホールというクリーニング屋さんの二階の20畳ほどの部屋を借りて「出口典雄演技塾」を開設なさった時でした。
出口さんは東大美学科卒業後、文学座に入団。主にシェイクスピアを手がけて頭角を現し、退団後、劇団四季を経て独立。
文学座での「十二夜」「トロイラスとクレシダ」「ロミオとジュリエット」などの舞台の様子を、文学座出身の劇団仲間たちは、エネルギーあふれる舞台だったと話してくれました。
私はといえば、高校時代、松江に巡業で回ってきた出口さん演出、劇団四季の「から騒ぎ」を観ておりました。
60年代の終わり、フランコ・ゼッフィレリ監督「ロミオとジュリエット」を観て以来、シェイクスピアに興味を持っていたのです。
それはそれは、スピード感あふれる舞台で、主演の影万里江さんの美しさと、まっすぐな演技に魅了されたものでした。
強く印象に残っていたその舞台の演出家が演技塾を開くと聞き、私は門戸を叩きました。
稽古場近くの喫茶店で面接。
出口さんは私と同じ島根県松江市出身。
同郷ということもあり、暖かく迎えてくださいました。
当時はまだ松江と合併してはいませんでしたが、出口さん、島根半島の突端、海辺の島根町、加賀という出雲神話の地の生まれ。
キサカヒメが矢を射抜いて島根半島の岩に穴を開けると猿田彦が生まれ出で、その穴に陽が差し込み、輝き始めたので「カガ」と呼ばれたという謂れの地です。
数年前、稽古場にお邪魔させていただいた時、出口さんと差し向かいで3時間もの間、積もる話をさせていただいたことがあるのですが、自分の芝居の原点は、加賀のお祭りでやっていた村芝居だとおっしゃっていたのが強く印象に残っています。
ちなみに、やはり恩師の遠藤賢司さんは加賀の海に散骨して欲しいと遺言し、加賀の海の底に眠っていらっしゃいます。
エンケンさん、加賀を訪れ、船で沖に出、その海の底を覗き込んだ時、自分はこの海からやってきたのだと思ったそうです。
水木しげるさんに日本海へ繰り出す土着神、妖怪達のCDジャケットを描いてもらった「エンヤートット」という曲への想いも強くあったようです。

そうして始まった役者の道の第一歩、私塾ではシェイクスピアの脚本を用いて、演技のイロハを教わりました。
出口さんの教えで俳優人生のスタートを切れたことは本当に幸いだったと思います。

変化、速度、内的イメージ・・・と、当初よくおっしゃってましたっけ。
とにかく、ものすごい速度で滑舌良くセリフを言うことだけが、まずは求められました。
論語の暗記ではないですが、内容を理解して覚えるのではなく、まず、言葉を体に叩き込み、それを何百回も繰り返すという方法で、知らず知らずのうちに、内容が、感情が、体の奥底から湧いてくるのでした。
ロイヤル・シェイクスピア・カンパニーの演出で知られたピーター・ブルックの演劇論「なにもない空間」からインスパイアされたと思われる指導法だったのかもしれません。
けれど、放たれる言葉は日本語、そこには土着の体があるはずです。
だからでしょうか?唐十郎の「特権的肉体論」を含む「腰巻きお仙」が出口さんの自宅の書架にあったこともよく覚えています。
どちらも、まず、なによりも肉体を!!

政治、文学、音楽、美術…明治開国以来葛藤の続く、西洋近代文明と、この土地の底から湧き上がり受け継がれてきたものたちとの折り合いを、いや、外来のものをこの土地のものとして肉化する作業を、演劇においても先達は何度も繰り返してきたわけですが、新劇、小劇場、アングラと、方法論は変われども、結局、最後は形骸化してしまう運命にあるのでしょうか?

けれど、世代が時代が変わる度に、それらを打ち崩さんと果敢に挑戦する者が現れては来ていたのですから、この先だって、まだまだ凌駕するものが待ち構えているに違いないと信じます。

言葉とは体のことだ!!という教えは、唐さん、出口さん、演出方法は正反対だったかもしれませんが、通じていると思います。
遠藤賢司さんやはっぴいえんどが好きなのもそのせい。
音は言葉であり、体である!!

唐さんの教えは「神経を体の内外に張り巡らせ自らの肉体を土くれや結晶のように物体化させること」、出口さんは「型を体得し、神経を駆使して体の内側を液状化させ、肉体の外側とを電波的に感応させること」。
そのように弟子の私は誤読して、教えを受け止めています。

稽古場で二人きりでお話ししていた時も、「型が欲しい」とおっしゃってました。
映画の話も色々と出て、溝口健二監督の「忠臣蔵」のことを熱く語っていらっしゃいました。
溝口の映像美学も出口さんの目指す世界が重なっていたのかもしれません。

出口典雄演技塾では膨大な量のモノローグや喜劇、悲劇、それぞれの会話劇を稽古しておりました。
特に、渋谷の小劇場ジァンジァンでの毎月の定期公演が決まると、劇団結成へと追い込み、のべ二百人以上出入りしていたメンバーから23人に劇団員が絞り込まれ、幸運にも私はそのメンバーに加わることができました。
これがなければ、私は俳優の仕事を今日まで続けることができたかどうかわかりません。

劇団では毎月違う演目を上演しなければなりませんでしたし、とにかく、がむしゃらに稽古するしかなく、けれど笑いが絶えないほどに楽しい日々でした。
私が唐さんの状況劇場に移ってからも、出口さんは舞台を観に来て下さることがありました。
唐さんの「吸血姫」をシェイクスピアシアターで上演した頃のことでした。
唐さんからは酷評されておりましたが、確かに、型で唐さんの世界を現すことは難しく、唐さんが想い描く世界とは真逆のものでありました。
けれど、それはそれで、表現に対する眼差しが明確になった瞬間でもありました。
出口さんといえども、迷うことはあったのでしょう。

そして出口さんは、本道のシェイクスピア劇37本全てを上演し終えるという偉業を達成。
その37本目の舞台を観てからは、一区切りついたように感じたからか、疎遠になってしまいましたが、10年ほど前から再びシアターの舞台に通うようになりました。

俳優座を拠点に公演を続けていらっしゃいましたが、結成当時の地下小劇場でのロックバンドにジーンズ&Tシャツという、荒々しい、若さ剥き出しの舞台とは印象を異にしていましたけれど、言葉を音を物体として、体をモノとして機能させる演出は、現代能とも言えるこの土地ならではの手法で、その志の高さ、清らかさに何度も涙しました。

ある時、敬愛する劇作家、演出家の山崎哲さんをお誘いして「マクベス」を観に行ったところ、通じ合うその感覚に、うなづいていらっしゃいました。
出口さん、唐さん、竹内銃一郎さん、山崎哲さん・・・ぶれることのない表現に対する姿勢を貫く演出家の指導を受けてきたことに感謝するばかりですが、その全ては出口典雄さんとの出会いにより始まったのでした。

孤高の、崇高なる唯一無二の演劇人、出口典雄さんの想いは、必ずや、後世に受け継がれていくことと思います。
本当にありがとうございました!!

安らかにお眠りくださいますよう。

橘井堂