橘井堂 佐野
2019年3月29日

萩原健一さんとの思い出
ショーケン(萩原健一)さんが3月26日に亡くなられた。
死因は消化管間質腫瘍。
織本順吉さんの大往生とは違い、悔やまれる。

ショーケンさんを初めて見たのは中学三年生だったかな?
グループ・サウンズ「ザ・テンプターズ」のステージ。
当時は、すでにGSブームも下火で、島根県民会館でさえも空席が目立っていた。
その、ほんの一年前にはジュリー〜沢田研二さんやサリー(岸部一徳)さんらのザ・タイガースがテンプターズと並んで超人気で、タイガースのコンサートに行くと退学になった。
なので、せっかく手に入れたタイガースのチケットは無駄になった。
一年後のテンプターズでは何も言われなかった。

ショーケンさんはステージで腕にギブスをして唄っていた。
なんでも、ステージ上で高いところから飛び降りて骨折したそうだ。
ムチャもんだったのかな??
松崎由治さんのギターが好きだった。
確か赤いセミアコ。
松崎さんのボーカル曲「おかあさん」は、泣きながら歌っていた。
演技だったとしても、凄かった。
大口ヒロシさんのドラムは、バスドラのヘッドの皮を外していたので、キックペダルを踏むたびに、ベードラの皮が揺れるのがよくわかった。
ストーンズのカバーのサティスファクションが良かった。
ショーケンさんはコンサートのフィナーレでロープにつかまって空中を揺れていた。
ギブスをしていたので、ヒヤヒヤしながら見ていた。

忘れられないのは1988年から1899年にかけて撮影していた五社英雄監督「2・26」。
4ヶ月ほど、松竹京都撮影所に通った。
監督や青年将校役の皆さんとよく一緒に酒を飲んだ。
萩原さん、三浦友和さん、竹中直人さん、本木雅弘さん・・・男ばっかりの現場で軍人になりきっていたかもしれない。
五社監督は萩原さんには厳しかったかな?

1989年1月7日。
その日は最初から青年将校が決起する、いわゆる映画の冒頭の紹介カットの撮影日としてセット撮影が組まれていた。
我々は、一人一人、和室のセット内に控えていた。
その時、助監督がスタジオのセットの中で和紙を一枚暗闇の中に差し出し、持ち上げた。
「ナニ?ヘイジョウ??」
誰かがそう言った。
和紙に書かれていたのは「平成」。
テレビのニュースで見るよりより先に、我々は昭和の革命を起こそうとする青年将校役として新たな元号を聞いた。
撮影後、スタッフ&キャストみんなで、セット内で鍋を囲んで新しい時代を迎えた。
今、その時代も終わろうとしている。
五社英雄監督が、三浦友和さんや萩原健一さんは横綱だとおっしゃった。
「あんたは横綱にはなれないかもしれないけど、大関にはなるだろう」
そうおっしゃってくださった一言は随分とその後の俳優人生において励みになった。

「2・26」撮影中、大阪でリドリー・スコット監督の「ブラックレイン」の撮影をしているというので、撮休の日に林海象監督と陣中見舞いに出かけた。
製鉄所のシーン。
高倉健さんの撮影などを見学させていただいた。
優作さんの待機時間、個室のキャビンカーの中で、内田裕也さんと優作さんと林監督と3時間も話し込んだ。
優作さんは言った。
「サノ、俺もやっとここまできたよ」と。
帰り際、裕也さんから呼び止められた。
「ハギワラによろしくな!!」

翌日、松竹京都撮影所のセットの中で、ショーケンさんに声かけた。
「裕也さんがヨロシクって・・・」
ショーケンさんは裕也さんの伝言を遮った。
「あ〜ん??? 裕也に言っとけ!! 40過ぎてヨロシクもないだろう!!」
もちろん、裕也さんにはその後もその話はしなかった。

それから15年以上も経って、「天使の牙」という映画で再び共演させていただいた。
「ご無沙汰してます」
再開のご挨拶をしたのだが、僕の目を睨みつけるばかりで、一言も返事をしない。
何か機嫌を損じるようなことをしでかしてしまったか・・・とも思ったが、どうもよくわからない。
撮影中は、自分のセリフを何度も何度も繰り返し練習していらした。
撮影終盤に、冬の撮影だったので、調布の日活撮影所のスタジオの外でガンガン(暖をとるための一斗缶)にあたっていると、ショーケンさんがニコニコしながら僕に近づいてきた。

「サノさん、幾つになった?」
「48です」
「しっく、はっくって言って、大変だぞ〜」
どうやら、僕の名前が思い出せないでいらしただけのようだった。

撮影前にジョギング中、骨折なさったとおっしゃってた。
テンプターズのコンサートのことを思い出していた。

その後は、お会いすることはなかったが、真っ向から取り組む俳優としての姿には敬服するばかりだった。

萩原健一さん、安らかにお眠りください。
合掌。

橘井堂