|
出雲市大社町の写真館「独立軒」の館主、山崎充史が急逝した。
55歳の若さ。
死因は今のところ伝えられてはいないけれど、心不全か何かか・・・
朝7時ごろに、助手も務めている妹が倒れているところを発見したそう。
充史くんは、いとこ甥に当たる。
独立軒は亡き母の実家で、戦後、伯父が開業。
大阪で修行していた写真館の屋号で、暖簾分けしたと聞く。
なので、独立軒という写真館は、何件かあったそうだ。
出雲大社の北島国造家の分家筋であることは、NHKの番組「ファミリーヒストリー」でも紹介された。
母は、結婚前、伯父の側でフイルムの洗浄をよく手伝っていたと言っていた。
伯父は写真館での写真のほか、山陰の写真家グループにも所属し、受賞経歴もあった。
僕の父も写真好きで、母と結婚した際に二眼レフのカメラと現像、引き伸ばしの器具を揃え、母の写真を中心にアートな写真を撮っていたが、伯父の影響も少なからずあったに違いない。
両親の間で写真は特別なものだった。
物心ついた頃から、写真館のフイルム洗浄をする棚田のような水の流れる光景に親しんでいた。
ずらりと吊るされたフイルムの帯も目に浮かぶ。
芯の長い鉛筆でプリントされた写真のスポッティング(白い点のようになった部分を埋める作業)をしている助手さんたちの作業を見ているのが好きだった。
伯父は厳しい人で、息子である僕の従兄を叱っていた姿が目に焼き付いている。
前々回の出雲大社の60年に一度の遷宮の記録を任され、昭和天皇が出雲大社を参拝なさった折にも、その記録を任されていた。
子供心に、とても誇らしく思っていた。
その従兄も、二代目として伯父の後を継ぎ、地域の活動にも精力的だった。
残念ながら50代の若さで他界。
動脈瘤解離だった。
その息子である充史くんも、父の思いを受け継ぎ、出雲大社の奉仕にも積極的に参加し、地域に貢献していたのだが・・・。
写真館は、写真がフイルムの時代からデジタルへと移行し、市井の人々にとって今まで以上に身近なものとなり、写真館の存続にも少なからず影響があったであろうから、随分と想いを巡らせ、努力をしていたように見えていた。
さらには、コロナ禍も押し寄せた。
近年、充史くんの祖母、そして今年の初めにはお母さんも亡くなった。
そして、本人まで・・・
なぜにこうも続くのか・・・?
スマホのカメラ機能の充実で、さらに写真というものが特別なものではなくなったけれど、その分、幕末からの写真の歴史を辿るかのようにして、写真館の写真、プロフェッショナルな技術職としての写真師の存在が特別なものとなってきているようにも思える。
それだけに、残念でならない。
独立軒は閉館するとも聞く。
妹二人も嫁いでいるし、充史くんは独身で、子供もいない。
幼い頃から慣れ親しんだ写真館や、賑やかな親族たちの笑顔が目に浮かぶ。
佐野家の家じまいも決したところゆえ、松江の実家に集っていた亡き親族たちの顔も浮かび、なおさらつらい。
けれども、親族は広がり、次世代、その次の世代へと、確実に受け渡されている。
心強い限りだ。
「家」にこだわらなくとも良いかもしれない。
故郷、出雲の地で、古来受け渡されてきたものを、形にこだわることなく伝えていければと思うばかりである。
出雲に関わらず、古来、息づいてきたそれぞれの土地への想いを抱き続けることから見えてくるものがきっとあるはず。
家、地域、国・・・与えられたそれらではなく、それぞれの自分の中にある、それらを、ひとりひとりが紡ぎあげていくことこそが大切なのかもしれない。
決してひとつの物語だけの中に閉じ込めようとするものたちの、思うがままにはさせてはならないだろう。
それは、俳優として与えられた物語を生きる上で、その物語を受け取る人、ひとりひとりが、さまざまな想いを抱くであろうことを大切にしなければならないと思い続けてきたからかもしれないけれど。
昨年末、独立軒のスタジオで、久しぶりに山崎家の親族が集まり、記念写真を撮った。
その時にはまだ充史くんのお母さんもいたし、あの記念写真は何かの予感だったのだろうか?
4月に出雲大社で娘の結婚式の写真も撮ってもらったばかりだったのに・・・
この、大いなる節目に、何をなすべきか、何ができるのか?
生きている限り、問い続けるのだろう。
充史くん、どうか、安らかにお眠りください。
|