橘井堂 佐野
2017年10月26日

遠藤賢司さん・・・不滅の男、亡くなってなお生き続ける純音楽!!
朗読劇「笑った分だけ怖くなるvol.2」 、遠藤賢司さんは「目に焼き付けておきたいから」と、なんとか観たいとおっしゃってくれていました。
その後、観に行ける体調ではないからと、劇場にお花を贈ってくださいました。
前回の雑記帳に、そのロビー花の写真、載せているけれど、10月18日に写真を送ったら「うわあ綺麗!」とすぐにメールで返事をくださいました。
NHKのファミリーヒストリーさんからのお花の隣だったことにも気づいていて・・・「明日もフレフレ!ファミリーストォリイ!」と。
番組も見ていただきたかったです。
千秋楽を22日に迎え、一息ついていたところ、24日に危篤との連絡が入り、すぐに病院へ。
昏睡状態だったけど、必死に戦っていらして、声をかけると、わかっているようでした。
親しい仲間たちが何人も駆けつけ、みんなにとって、どれほどエンケンさんが大切な人なのか、あらためてわかりました。
音楽をかけようとエンケンさんのラジカセを取りに行っていたところだったので、僕のスマホに入っているエンケンさんの曲を耳元で流したら、一緒に歌い出したかのように声を出し続けていました。
とっさの選曲、一瞬迷ったけれど「満足できるかな」 を全曲かけました。
ラジカセが到着して、「夢よ叫べ」のCDや「けんちゃんのピアノ画(スケッチ)」が流れました。
翌日、僕はテレビ番組の収録がありましたが、病院がスタジオから近かったこともあり、病院に寄ってから現場に行こうと思っていたところ、移動中に訃報が届きました。
霊安室のエンケンさんはとても穏やかなお顔でした。
親しい人たちを年を重ねるごとに何人も見送ってきたけれど、亡くなってすぐには、まだ、意識があるに違いないと確信しているので、耳元でお礼を言いました。

遠藤賢司ファンになったのは中学2年か3年の時。
ディスコグラフィーでは1969年の2月1日に東芝エキスプレスから「ほんとだよ/猫が眠ってる」リリースとなっているので確かにその頃から。
最初はラジオの深夜放送だったかな?
松江の本屋さんにも「THE OTHER MAGAZINE(YOU改め)」や「フォークリポート」などは置いてありましたし、「新譜ジャーナル」などで日本のフォークやロックにのめり込んでいましたから、遠藤賢司さんの情報はそうした音楽雑誌からも得ていました。
それまで、フォーク・クルセダーズのファンで、加藤和彦さんのプロデュースで「ほんとだよ」のシングルが出たので、最初は加藤和彦さんが実は入口でした。エンケンさんは「全部、俺がやったんだよ」とおっしゃってましたが・・・。
1969年の、やはり東芝エキスプレスからリリースされた実況録音版「カレッジフォーク・コンサート」のLPレコードに遠藤賢司さんの「ほんとだよ」が収録されていて、そのヴァージョンが好きすぎて、本当に擦り切れるほど聴きました。
高校生になって、中津川での’70全日本フォークジャンボリーの実況録音盤が出て、こちらはフォークの神様、岡林信康や高田渡、五つの赤い風船など、東芝のメジャー路線のフォークソングではなく、URCレコードのメンバーが多く含まれていて”アングラ”色が強く、けれど、好きなフォークのスターたちが色々聴けるので、こちらにものめり込みました。
もちろん、遠藤賢司さんも入っていましたが、曲目が「夜汽車のブルース」「満足できるかな」・・・と、「ほんとだよ」の切ないラブソングと一転して激しい演奏と歌声に、当初、ちょっとビビり、なんか恐くて、レコード針を、その2曲だけしばらくは飛ばして聴いておりました。^^”
けれど、いったん、その曲の虜になったら、何度もなんども、聴き返すのでした。
そのアルバムでは、岡林信康のバックバンドとして「はっぴいえんど」が演奏しておりましたが、はっぴいえんどの曲は「12月の雨の日」一曲だけでしたけれど、とてつもなく衝撃を受け、それからは、はっぴいえんどと遠藤賢司の熱烈なファンとなって行ったのでした。
で、よく年、1971年8月、フォークジャンボリーに一人で出かけ、生のステージでかぶりつきで遠藤賢司やはっぴいえんどの演奏を体験したのですが、これがその後の人生を決定づけてしまったのかもしれません。
その年のライブ盤、はっぴいえんどの演奏に「ええど、ええど〜」と叫んでいる僕の声も入っていて、その年のライブ盤をはじめて聴いた時には、それは嬉しかったのをよく覚えています。
遠藤賢司さんはステージでレコーディング中だとお話ししていて、あの時期、はっぴいえんどは「風街ろまん」を、遠藤賢司さんは「満足できるかな」という、日本のロック史に残る金字塔を打ち立てた、まさにその最中での演奏を目の当たりにできたことも幸せでした。

はっぴいえんどは1stアルバム「ゆでめん」を、遠藤賢司さんも1stアルバム「niyago」を出していらっしゃいましたが、松江ではURCレコードは売っていなかったので、フォークジャンボリーの会場で求め、夏休み、帰ってからバンド仲間たちと一緒に聴きまくり、通いつめていた喫茶店MGでも聴いていました。
それで、遠藤賢司さんが、はっぴいえんどの1stより先に、メンバーと一緒に「niyago」を作ったことを知ったのでした。
その後、仲間内では「はっぴい遠藤賢司」と云っておりました。
バンド仲間とは、もちろんはっぴいえんどや遠藤賢司さんの曲をカバーしておりました。
後になって、高校時代にバンドで演奏した「ほんとだよ」の音源を聞いてもらったところ、エンケンさんにとても褒めていただいたことが何より嬉しかったです。
それから、現在に至るまで、高校時代のバンドのメンバーも、ずっとエンケンさんを聴き続けています。

1974年、青山タワーホールでの「kenji」のレコ発ライブ的な「遠藤賢司リサイタル」2デイズにも、両日行きました。
バンドはなくて、一人での演奏。家具なども持ち込み、自分のお部屋を再現したようなライブでした。
「踊ろよベイビー」で紙吹雪撒き散らして、大盛り上がりでした。
僕が役者の道を歩き始めた頃、エンケンさんが道玄坂に「ワルツ」というお店を出して、開店第一号の客が僕だったのですが、エンケンさんはその時のことをよく覚えていてくれました。
「キザな帽子かぶって、スケッチブック持って・・・」と。
美学校に通ってた時だったからかな?
エンケンさんは腰まである長髪にヒゲを蓄え、音楽誌ビルボードを渡してくれ、「これでも読んでたら?」と英語の雑誌を渡してくれました。
読めなかったけど^^"

ああ、想い出はキリがない・・・。
ワルツ、高円寺の次郎吉や渋谷のTAKE OFF7、エッグマン・・・たくさんのライブ。
1983年、状況劇場のチラシ撒きで渋谷を回っていた時、芝居漬けでしばらく行ってなかったエンケンさんのライブを知り、再び通うように。
映画「ヘリウッド」の後、「オムライス」の頃。
思い切って、エンケンさんに劇団の招待券を送ったら、本当に来てくださって、それからのおつきあい。
劇団を去る頃、バンド、タイムスリップを夢野ワンダ、石川マキ、嶋田久作と組み、自主制作カセットを作ってエンケンさんに聴いてもらったところ、「ヴェルベット・アンダーグラウンドみたい、いいね、一緒にやろう」と誘っていただき、ライブをやるように。
劇団を辞め、1984年、11月だったか、渋谷のエッグマンでのあがた森魚さんとエンケンさんの対バンで、僕と嶋田久作がバックを務めていたところ、映画を企画していた林海象氏と出会い、映画「夢みるように眠りたい」のデビューと相成った次第。

その後は、現在に至るまで、時に優しく、時に厳しく、おつきあいいただきました。
故郷、松江での喫茶MGの開店30周年、35周年、40周年のライブも忘れがたく・・・高校生の頃憧れのエンケンさんや高田渡さんら、MGで流れていたレコードのミュージシャンの方々が集まってくださっていたことも振り返れば夢のようです。

エンケンさんのライブを最後に観たのは、今年の6月、渋谷クアトロで。
浦沢直樹さんと並んで一緒に観ました。
浦沢さんの「20世紀少年」の主役は遠藤ケンヂ🎶
毎回、今回がこれまでで最高‼︎と思わされますが、とてもこれで亡くなるなんて思えない、ホントに凄まじい迫力のライブでした。
文字通り、命がけのステージを目の当たりにし、アンコールでの「夢よ叫べ」はもちろん、新曲「GOD SAVE THE BAKATIN」にも圧倒されました🎶
エンケンさんの音楽には、泣かされ、励まされ、笑いが止まらず…永遠の史上最長寿のロックンローラーです‼︎

若松孝二監督とエンケンさんと一緒に飲んだことも一度だけありました。
いなくなっても、その眼差し、存在がなくなることはないので、これからもエンケンさんの純音楽を聴き続け、「ちゃんとやれ!!」と言われ、自分の仕事に取り組み続けたいと思います。
エンケンさん・・・遠藤賢司様・・・今後とも、よろしくお願いいたします。

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★6月のクアトロの打ち上げで。左から浦沢直樹さん、エンケンさん、佐野、ドラムの森信行さん。

橘井堂