2023年11月、文化放送の番組『おとなりさん』 より、『ゴジラ−1.0』 (監督:山崎貴)公開にあたりゴジラについてのお話を・・・ということで、お声がけいただきました。
ならばと、公開初日に日比谷のTOHOシネマズにて『ゴジラ−1.0』を鑑賞。
形状も含め、そのありようの変化と、時代の流れについて、ゴジラのこと、色々と考えさせられました。
『ゴジラ−1.0』は、昭和29年(1954)に公開された第1作目の『ゴジラ』(監督:本多猪四郎、特技監督:円谷英二)より以前の、戦中、戦後を舞台としています。
それを受けて『ゴジラ−1.0』を観るにあたり、是非、併せてご覧いただきたいとオススメした映画も番組でご紹介。
戦中に公開された昭和17年、1942年公開の『ハワイ・マレー沖開戦』(監督:山本嘉次郎、特技監督:円谷英二)、アメリカによるビキニ環礁沖での水爆実験により被曝した第五福竜丸事件の下に生まれた『ゴジラ』、そして高度経済成長期に突入した頃、そこに疑問を呈するかのように、いまだ戦争は続いている‼・・・と切り込んだ、昭和38年、1963年公開の『海底軍艦』(監督:本多猪四郎、特技監督:円谷英二)。
それらの作品は、戦中、戦後の人々の戦争に対する想いの流れをたどることで、今を、これからをどう生きれば良いか?という問いかけと受け止めることもでき、また指針になるようにも感じられるのです。
加えて、昭和37年、1962年公開『キングコング対ゴジラ』(監督:本多猪四郎、特技監督:円谷英二)で日米二大怪獣対決を実現させた、私の初ゴジラ体験もご紹介。
時を経て、アメリカ版のゴジラシリーズでも2021年に『コングvsゴジラ』(監督:アダム・ウィンガード)が公開され、今年2024年にも『コングvsゴジラ 新たなる帝国』(監督:アダム・ウィンガード)が公開予定です。
また、AppleTVで配信中の『モナーク:レガシー・オブ・モンスターズ』も、2014年からスタートした『GODZILLA』(監督:ギャレス・エドワーズ)の流れを受けたモンスター・ヴァースのシリーズとして目が離せません。
日米のキングコング、ゴジラを通しての交流は、国を超えた新たなる世界へと導いていくかのようです。
両国の成り立ちの、それぞれの物語に上書きされた、その向こう側にある土着、暗黒の象徴ともいうべきコングとゴジラと向き合い続けることが日米の宿命なのでしょうか?
それをどう受け止めるかによって、怪獣たちの物語は全く違うものに見えるのかもしれません。
戦中の戦意高揚作品ながら、「もう、うちの子ではない」と国に我が子を差し出す母の覚悟を見せる一方、戦争の残酷さ、残された家族の辛さも、実は深く描かれていた『ハワイ・マレー沖開戦』。
戦後、アメリカの水爆実験により目覚めたことを暗示する『ゴジラ』は、一方的に駆逐するのではなく、なぜゴジラが現れたのか?と、その実態を探り、保護し、研究せんとする古生物学者の立場と、ただただ襲いかかる恐怖から逃れようとする人々との対比が印象的です。
では、その恐怖とは、いったい何なのでしょう?
襲いかかる放射能を含む熱線を吐く巨大生物の恐怖に説明など無用かもしれません。目の前の恐怖からは逃げ惑うか、駆逐せんと戦うしかないでしょうから。落ち着いて恐怖が現れた訳など考える余裕などないでしょう。
けれど、次なる出現に対しては、恐怖の存在の何たるかを理解しない限り、その恐怖と向き合い、対処することなどできないのではないでしょうか?
なので『ゴジラ−1.0』では次なる出現ではなく、それ以前の出現を描いて、一作目の『ゴジラ』の古生物学者、山根博士のように理解しようとはせずに、その存在の何たるかを研究し、保護しようという眼差しを封じ込めているようにも感じられます。
なぜ『ゴジラ−1.0』では、戦争を振り返りはするものの、そして、敗戦しながらも、まだ戦争を生きた体に決着がつかないでいることを抱え、またそのことに共感する人間がいることを提示しつつ、けれどその恐怖の根幹を理解する必要はなく済むように思われる『ゴジラ』以前のゴジラを世に現したのか?
それを知るには、いずれにせよ「ゴジラとは何か?」ということを理解しなければならないでしょう。
戦後10年が経とうとしていた時期に何故、海底に潜む古代より生息し続けていた怪獣が、その存在の伝説を伝える島に現れ、東京を襲ったのか?
大戸島の古老は、時化が続き魚が採れなくなると娘っ子をゴジラ様の生贄に捧げたと言いますし、ゴジラは台風、地震、津波と同様の自然災害の象徴でもあるのでしょうが、同時に、水爆実験により目覚め、放射能を含む熱線を吐くことからも、核の象徴として捉えることができるでしょう。
この列島は地震、津波、台風などの自然災害に襲われ続けてきたことでしょうから、自然に対する恐怖の根幹は、古代より変わることがないでしょう。
時を超えて現在もまた、2011年3月11日の東日本大震災により、またそのことによる福島での原子力発電所の放射能汚染問題により、2014年公開のアメリカ版『GODZILLA』や2016年公開の『シン・ゴジラ』(監督:樋口真嗣 総監督:庵野秀明)が現れたことは間違いのないことだと思います。
『ゴジラ−1.0』公開直後の2024年元旦に、能登北陸の大地震が起きたことも何やら因縁めいています。
そういえば1999年公開の『ゴジラ2000 ミレニアム』(監督:大河原孝夫)の後に、アメリカ同時多発テロ事件が起きたことも思い出されます。
横浜の高層ビルがゴジラにより崩落させられる様が、既視感を持って、現実のニューヨークのツインタワー崩落と重なった時には、背筋が寒くなったものでした。
まあ、ここまでのめり込むと、信憑性のないただのオタクの都市伝説流布になってしまいかねませんから、この辺りにしておきますけれど。
ゴジラとは、自然災害、核への恐怖の象徴であることは確かだと思います。
自然と核・・・けれど、恐怖の対象であると同時に、そこから恩恵を受けてきたことも事実でしょう。
自然からは人が生きていく上で欠かすことのできない水や食物を、核エネルギーからは電気や経済社会への寄与を。
かつて私も東京電力の広告に参加しておりましたし、その電気を消費もしておりますから、原発事故による現在、未来への甚大なる被害のことを考えると、確かに恐ろしすぎて思考停止にもなりかねません。
でも、だからと言って、その恐怖の根幹から目を背けてはならないとは思います。
それは、ヒロシマ、ナガサキへの米軍による原爆投下で終止符を打った太平洋戦争で、戊辰戦争で、源平合戦などで命を落とした方々がいたからこそ、自分が今ここに存在しているのだろうという、この列島に流れてきた暗黒の歴史の上に生かされていることを自覚させられるからです。
自然と核、古代の象徴がゴジラなのだと受け止めています。
それがこの列島国を襲った。
なぜ襲われたのか?
それは第一作目の『ゴジラ』において、はっきりと観てとることができます。
繰り返しますが、核の恐怖は、ヒロシマ、ナガサキへの米軍による原爆投下から始まったと言えるでしょう。
そうして太平洋戦争に終止符が打たれた。
核実験により姿を現したと思しきゴジラが古代の象徴でもあるとしたら、正しいと信じていた大和国の歴史の真実が覆されたかのようで、また、その真実が、建国の政治利用のために実は歪められてきたものであったかもしれないと知ることで、行き場のない想いと体の象徴として目覚めたかのように受け止めることができるかもしれません。
『ゴジラ』は、国家の正義を信じ、あるいは信じることを強要されて戦死した兵士たちの死とはいったいいかなるものだったのか?と、問いかけてもいたのでしょうか?
大和国の向こうにある真実と向き合うことを畏れ、古代を象徴するかのようにも思われる龍蛇神=ゴジラの何たるかを知れば国家の物語が破綻するからなのか、研究者たちを追いやろうとする国の立場や明るい未来を想い描く若き男女と、核兵器に匹敵するものを発明したが故に目覚めた龍蛇神を駆逐することを余儀なくされた天才化学者との葛藤が、『ゴジラ』には丁寧に描かれており、普遍性のある作品になっているのだと思います。
『海底軍艦』は、戦後20年が経とうというのに、未だ大日本帝国軍人として生き続けていた人たちが、海底から高度経済成長に浮かれる現代社会に苦言を呈しているかのように見えるかもしれません。
ここに、マンダという龍蛇怪獣が出てきますが、これがゴジラ同様の、龍蛇信仰の古代へと誘うかのようです。
いずれの作品も、一方的なものの見方ではなく、相反する立場や想いが際立って見えます。
他にも戦争にまつわる東宝特撮映画では『ゴジラ』と同じ1954年公開の『ラバウル小唄』(監督:本多猪四郎)、1961年『ハワイ・ミッドウェイ大海空戦 太平洋の嵐』(監督:松林宗恵)、1968年『山本五十六』(監督:丸山誠治)など数多くありますが、あの戦争が何であったのか?と問いかけることは止まないでいました。
戦争を体験した世代の映画人たちからは、二度と戦争を起こしてはならないとの思いを強く感じます。
『ゴジラ』の主演、宝田明さんは、何度も非戦の想いを口にしていらっしゃいました。
先達は、兵士たちの死を、決して弔うために美化するのではなく、何が戦争へと駆り立てたのか?また、戦争中の国民の心身のあり様を検証し直すことで、今を生きる姿勢がどうあるべきかと見つめる機会を提示してもいたのでしょう。
戦後80年をも迎えようとしている現在、同じく戦争を舞台とした『ゴジラ−1.0』も同様に、その姿勢が問われることになります。
だからこそ、第1作目の『ゴジラ』の魂を受け継いで、いや、それ以前の物語ゆえ、『ゴジラ−1.0』は真実のゴジラの姿を現しているのだと、白黒映画として上映して見せもするのでしょう。
それをどのように受け止めるかによって、ゴジラの咆哮は、まったく違うものに聞こえることでしょう。
今を生きる観客に、その問いが、この先どの様な想いとして反映されていくのでしょうか?
ゴジラの実態が、そこに確かに感じられるのか?
それとも、古代に蓋をして、だからこそ尚更「これが実態だ!!」と、これでもかとゴジラの表皮にリアリティを持たせ、目の前の恐怖を募らせるのか?
日本のオススメゴジラ関連映画に加え、アメリカの特撮映画、1925年の『ロストワールド』(監督:ハリー・0・ホワイト)、1933年の『キングコング』(監督:メリアン・C・クーパー、アーネスト・B・シュードサック)、日本の公開は『ゴジラ』と同じ1954年でしたが、1953年の『原始怪獣現わる』(監督:ユージン・ルーリー)も是非‼
そうした海外の作品の影響を受けて、この列島に生まれたゴジラであることは確かでしょう。
『ゴジラ』の原作は香山滋ですが、『原始怪獣現わる』がレイ・ブラッドベリの『霧笛』を下敷きにしていることとも重なります。江戸川乱歩が牽引した雑誌『宝石』で頭角を現したファンタジー作家、香山滋を起用したのもうなづけます。
コングや原子怪獣は、先住民やアフリカ大陸から連行してきた黒人奴隷たちへの差別や、その反動への恐怖が溢れ出し、襲いかかってくるかのようです。
ゴジラが古代の象徴だとすれば、『ゴジラ−1.0』は、日本国を舞台としながらも、限りなくアメリカの『キングコング』などの作品に近いのかもしれません。
『キングコング』も謎の島で土着民たちばかりはコングを畏れ敬っていはしましたけれど、ニューヨークの白人たちは黒人差別を堂々と口にし、吹き出した暗黒を封じ込めようと徹底的に攻撃します。現代を生きる優越種の白人女性を手にし危険にさらしたコングなのだから、劣性の古代の象徴は殺されて当然なのだと言わんばかりです。
一方、恐怖を封じ込めるのではなく、土着を畏れ敬うこともまた大切なのだと感じさせた一作目の『ゴジラ』こそ、『ゴジラ』の『ゴジラ』たる所以だと思うのですが、『ゴジラ-1.0』に於いては、アメリカと同等の質感と精神を提示して、とてつもない恐怖が襲いかかって来るかのように見えたのは、いったいどういうことなのでしょうか?
一作目の『ゴジラ』の山根博士のように、保護し、その実態の何たるかを掘り下げようとする眼差しが『ゴジラ−1.0』に見当たらないのは、それを考えさせる暇もないほどの恐怖に苛まれている現在だからなのでしょうか?
見渡せば、アメリカもロシアも中国も同様なのかもしれません。
インドはどうだろう?
襲いかかる恐怖を追いやるためには、それを上回る力でねじ伏せるしかないと考えれば、強きものが弱きを助け、国民が一丸となって戦うしかないのでしょうか?
そのためには国民が皆同じ価値観を持つような国家であらねばと行動を起こすのでしょうか?
であるとしたら、違う価値観、宗教観をひとつにする為には、そりゃあ、八百万の神々の声を塞ぎ、地の底、海の底からの呼び声を封じ込めなければならないことの察しはつきます。
その恐怖の源を辿れば、自然災害こそは避けられずとも、国家自らが生み出してきたものだということが知れるからです。
それでも目の前の恐怖からは逃れたい。
そのためには何でもする。
でなければ、平穏に感じられる、あるいは不穏を感じないように体を馴染ませているこの列島国の日々が、現在の日常が、解体しかねないのですから。
そう思う気持ちが、自分の中にもあるのでしょうか?
思考を停止させなければ生きてはいけないほどの恐怖の源とは、何なのでしょう?
一作目では南の島々で戦死した兵士たちの・・・それを例え英霊として、その死を無駄にはさせないとの想いがあったとしても、行きどころのない魂が東京を徘徊していたようにも見えた、あの恐ろしい姿を、そして、その向こうにある神獣の歴史を、なかったことにするかのように、撃ち殺すことができなかった『ゴジラ-1.0』の若き兵士の勇気のなさを責めることなど出来はしません。
逆から観れば、撃ち殺すことができ、勝利を収めることができれば、勇気ある行動として、古代からの歴史を自ら葬ろうとする行為を称賛されもするのでしょう。過去を、土着を「悪」「劣」とし、振り返らぬよう仕向けた国家の歴史の後ろめたさに蓋をするかの如く。
そうして、何事もなかったかのようにして平穏な日々を過ごすことができると信じて・・・体を馴染ませて・・・。
それで『ゴジラ-1.0』は、アメリカでも大ヒットしてるのかな?
戦後を描いた作品でありながら、連合国占領軍が登場しないこともあって、フィクションとして割り切って観ることができるからなのでしょうか?
異物を排除する!!という姿勢を示す政治家に共感するアメリカ国民が少なくないということを聞くにつれ、それがまた、アメリカでの映画大ヒットの要因なのかもしれない・・・と、うなづいてしまいます。
まあ、歴史を振り返れば、国家というものは、古代より、その地において権力を持ったものが、それまでその土地を治めていた者たちを、治める器ではなかったと、間違っていた存在として見なすことで、自らの統治の正当性を「正義」として掲げてきたのかもしれませんし、優位性を力説し実効支配すれば、それが正しかったことと広めることは、必然ではあるのでしょうけれど。
事実、多くの人々がそこに同調しているのですから。
かく言う自分自身もまた、その中に生まれ、生かされ、抗うことなく共存しているのですから。
『ロストワールド』の原作、コナン・ドイルの著述には、古代生物を表現するのにこうあります。
「頭は鳥のようであり、胴体は太ったトカゲに似ている。長く引きずっている尻尾には上向きのトゲがくっついており、曲線をえがいた背中には、大きな鋸の歯のようなひだが刀のようにならび、ちょうど一ダースものニワトリのとさかをたがい違いにおいたようだった」(瀧口直太郎訳/創元SF文庫)
『ゴジラ』第1作は、実に見事に、ドイルの表現を踏襲しています。
イギリスの作家のイメージが、アメリカで映画化され、それがまた海を渡って日本の土着の龍蛇神へと姿を変える。
日本の最新作のゴジラの形状が、アメリカで形作られたものを踏襲していることも、自然なことなのかもしれません。
けれど、奥底に流れている、この列島に根ざすゴジラへの眼差しは、例え描かれなくとも、潜み続け、また、現れてくると信じます。
『ゴジラ-1.0』のラストシーンが、そのような意識で描かれているかどうかは別にして、無意識無自覚の恐怖は、自ら生み出したものをも飲み込んでしまうことも芸能の本質なのでしょう。
その、土着の吠え声がとどろき渡ることを止めることなど、誰にもできやしないと信じます。
第1作目の『ゴジラ』のラストは、特攻隊を想起させる芹沢博士の独断により、ゴジラを駆逐しました。
その骨格があらわにされ、芹沢もろともに消え去ってゆきました。
海の底に抱かれて・・・母の胎内に帰る如く・・・海は羊水?
オキシジェン・デストロイヤーにより酸素を破壊する行為は、もしかしたら、生物が誕生する以前の地球からやり直す生命の覚悟だったのかもしれません。
ゴジラの骨格が、骨が、破壊されたラストシーンでしたが、一作前の日本のゴジラ『シン・ゴジラ』は、そもそも擬態をするタコ、ミミック・オクトパスのような生物がゴジラに擬態していたとも考えられるので、恐竜や魚のような骨格は見えなくて当然です。けれど『ゴジラ-1.0』に於いては最後まで、その骨を、体が崩れ去っていく中においてでも、私は認識することができませんでした。
ですが男性の行動に翻弄される女性の姿ばかりは、一作目同様なのかもしれません。
けれど、ここでは、最後にしっかりと、その眼差しで男性を捉えています。
しかも、隻眼で!!
芹沢の化身の如く。
「それで良いのか?」と。
芹沢は、自らの中に確かに潜む、哺乳類ヒト科男性の特性に苦しんでいたが故に、ならばと、女性として凛とした態度で生まれ変わったのでしょうか?
ジェンダーの問題が論じられる現代の価値観をも受け止めて?
そうして、古代よりも、生きている今こそが大切なのだと訴えて?
けれど、現代も、やがて古代になるでしょう。
今を生き延びるために、差別や同調圧力を排したかのように振舞いながら、その眼差しの中で男たちは、言い訳や詭弁の振る舞いで、自らの意思の正当性を主張しているようでもありました。v
戦後を描いた作品ですが、現代と重なります。
確かに生きたい、平穏な日々を過ごしたい。
けれど、そのためには、やはり生贄を捧げなければならない・・・と言っている様にも受け取れます。
『ゴジラ』の大戸島の古老の言い伝えのように。
それは、いたし方ないことなのでしょうか?
そうしてまた、新たな支配者たちの価値観で、正史として、この龍邪体の神話の世界においても“古きものども”は追いやられてしまうのでしょうか?
ですが、その物語もまた、どうやら海底深く、潜り込み、別のところから姿を現してきそうではあります。
今はただ、第一作目の原作者、香山滋さん、田中友好プロデューサー、本田猪四郎監督、円谷英二特技監督、そして山根博士の想いと、芹沢博士、南海サルベージの尾形さん、その婚約者、恵美子さんらをはじめとする、登場人物のみなさんが、『ゴジラー1.0』やアメリカ版の『GODZILLA』や『MONARCH』などをご覧になってどのように想うのか・・・そのことに想いを馳せるばかりです
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