2018年6月5日
井伊直弼公に導かれて |
平成30年(2018)のNHK大河ドラマ『西郷(せご)どん』にて、彦根藩主、井伊直弼公役を仰せつかりました。
これは、『西郷(せご)どん』の公式ホームページの中にある「週刊 西郷どん」の3月4日号vol.9、特別寄稿「井伊さんぽ」用に準備した写真と文章のすべてです。
井伊直弼公に導かれ、幕末を振り返っております。
「桜田門外の変」で、水戸、薩摩を中心とした、倒幕派によって暗殺された直弼公ではありますが、政権を担っていた当時の徳川幕府にしてみれば、クーデターを起こした反政権派によるテロでもありました。
井伊直弼公を演じるにあたり、直弼公の死が、現代において、あらためてどのような捉え方がなされるべきなのかを塾考し、ご供養の気持ちを込め、過ぎ去った過去からこれからのことを学んでいければと足を運びました。
佐野史郎
彦根城。2017年、井伊直弼の202歳の誕生日10月29日に、直弼公の故郷、彦根を訪れました。たまたま前日、名古屋近郊で舞台があり、翌日から2日ほど空いていたので、新幹線、米原駅から彦根へ。
誕生日と重なったのは、ホントに偶然!! 呼ばれてた???
彦根城。残念ながら29日は雨で、流鏑馬(やぶさめ)などの行事は中止となってしまったのですが、彦根市、彦根観光協会、彦根商工会議所、滋賀大学のみなさまにご協力いただき、井伊直弼公ゆかりの地をご案内いただきました。
写真は、翌日。すっかり晴れ、ドラマへの想いも新たに。
井伊家の菩提寺、彦根の清凉寺。この写真、2017年3月4日に撮影したもの。
実は「西郷どん」で井伊直弼役をご依頼いただく1年前に、すでに彦根を訪れていたのでした。
10年以上続けている「小泉八雲・朗読のしらべ」を清凉寺の本堂で上演した時のものなのですが(よく見ると入り口にポスターが掲げてあります)、この日は、僕の誕生日!!
誕生日で因数分解する彦根。
ちなみに、井伊直弼が殺害された桜田門外ノ変は安政7年3月3日(1890年3月24日)。なので、井伊家では桃の節句のお祝いはしないとか?
清凉寺、来歴。
清凉寺近くには佐和山城址があります。戦国時代、慶長5年(1600年)石田三成を追いやった後、徳川家康が落城し、井伊直政が入城。跡を継いで城主となった堀尾吉晴は、その後、わが故郷、島根県松江市の国宝・松江城を築城したのですが、実は2017年、ドラマで堀尾吉晴公を演じていたのでした。
何の因果!?
清凉寺に生えるタブの木。
清凉寺には七不思議として伝わる怪談があります。タブの木伝説も、その中の一つ。ここのタブの木は佐和山城築城以前より残る樹齢数百年のもので、夜になると、女性に化身して参詣者を驚かせたそうです。関ヶ原の戦いで亡くなった多くの犠牲者たちの血が、この地に流れ込んだからだとも云われています。
吸血樹木の物の怪・・・井伊大老が桜田門外ノ変で血まみれになったことも想像させるなあ。
清凉寺外観。
同、タブの木。
タブの木、近くから。
おばけ太鼓。夜中にひとりでに鳴るという伝説が・・・。
清凉寺、坐禅堂。
井伊直弼も、ここで修行したそう。あやかって、私もピシリ!!と、警策(きょうさく)で無心に(?)。
井伊直弼公が実際に座っていた坐禅の椅子。この上で足を組むそうです。修行僧たちは、畳の上での坐禅ですが、ご住職や井伊直弼公は坐禅用の椅子で行なったそうです。
直弼公は、31歳の時に禅の悟りを開いた証を、こちらで授けられたと云いますから、やはり特別なお方だったんでしょうね?
憎々しげな悪役として、描かれることが多い井伊直弼ですが、能、居合、茶道、禅を極めたような人物が、すぐに激昂したり、卑怯な策略を用いたりするでしょうか?・・・彦根にいて一番に想ったことでした。
直弼公の坐禅椅子に実際に座ってみる佐野。
恰幅の良かったという直弼公ですが、それでも僕にはちょっと窮屈だったかな?
泰然自若とした人物像を思い描いてはみるのですが、演じるのはドラマに登場するだけで悪役・・・と思われてしまう俳優、佐野史郎。何を期待されているかも、十分わかってはいるつもりです。・・・が!!!
対立する相手側から見れば、同じ行動、同じ言葉も、正反対のこととして伝わり、解釈してしまうことがあるのは今の世も同じ。 “事実”とは、ドラマであれ、現実であれ、それを受け取る人の、物の見方がそのまま反映されるというだけのことなのかもしれません。
井伊直弼が17歳から32歳まで過ごした住まい「埋木舎(うもれぎのや)」。別名「柳王舎(やぎわのや)」。直弼はしなやかな柳を好み、庭にも柳が植えられていた。今も玄関前に柳が残る。
父、井伊直中の14男ということもあり、当初は出世など考えられず、抑制した生き方を望んでいたからなのか、質素な住居を「埋木舎」と称し、禅、武術、和歌、茶道、華道、能・・・と、ただひたすらに文武に精進したのでした。
また「世の中をよそに見つつも埋もれ木の埋もれておらむ心なき身は」と歌を詠み、このまま埋もれてはいないと、強い意思を同時に抱いてもいたのでした。
埋木舎、玄関。
埋木舎は直弼の死後、側役であった大久保小膳に明治4年に拝領され、その後、章次、員臣、章彦、定武と代々受け継がれ、現在はご子孫の大久保治男さんがご当主として井伊家、直弼公の実像を今に伝えていらっしゃいます。
埋木舎、茶室。
この風炉先屏風は、井伊直弼が設えさせた物だそうです。まるで、まだ、そこにいらっしゃるかのよう・・・? 私は今年63歳。それを想うと、まだ、150年ほどしか経っていないんだものなあ。
この日、10月29日は井伊直弼の202歳のお誕生日。で、大茶会が開かれておりました。
茶室の名は「澍露軒」 。
法華経の「甘露の法雨を澍(そそぎ)て、煩悩の焔を滅除す」の一文からとったものだそうです。
直弼公が座したその場所に、私も身を置いて、その空気、佇まいを感じようとはするのですが・・・煩悩の焔は・・・。
直弼公御自筆「炭組様之図 下書」
茶道に使用する炭の図でしょうか? お誕生日だったから公開されていたのかな? 床の間にさりげなく展示されておりました。繊細な筆使い。潔癖で几帳面な人柄の一端を観る想いです。
兎の釘隠し。埋木舎で、ふと目に止まった釘隠し。釘の跡を隠すための装飾品ですが、なぜ兎?
コウモリの文鎮。
これ、私が読書や手紙を書く時などに自宅で使っている文鎮。
画家の野中ユリさんからのいただきものなのですが、これが、何と、薩摩、島津家の別邸「仙厳園」の釘隠しを模したもの。
当然、井伊直弼の宿敵、島津斉彬も愛でていたことと思われます。
蘭癖趣味、西洋好みの島津斉彬らしいなあ~と、思わずチクリと、役柄に入ってしまいそうになりますが、自分で使っているのだから言い訳無用!島津とも仲良くしたい。
他にもコウモリの釘隠しは、新撰組、土方歳三ゆかりの東京、多摩の日野宿本陣にもあるそうですが、金沢の豪農、旧・佐野家にもあるようです。
強引な佐野つながり。
そういや、栃木県佐野市の天應寺にも井伊家の墓碑があるそうです。佐野が彦根藩の領地だったことによるものだそうです。
どこまでも強引な佐野つながり。
埋木舎、庭戸。
埋木舎、庭園。
雨に濡れ、落ち着いた風情に心休まる想いでした。
埋木舎、門。
すぐ前は彦根城。お堀も目の前です。
天寧寺、石州流庭園。
井伊直弼がプライベートで安らぎの場としていた高台のお寺。
石庭の向こうはビルが見えるけど、昔は借景の美しいところだったことでしょうね。
直弼公の片腕ともいうべき長野主膳のお墓もあります。
天寧寺、五百羅漢像。
全国から寄進された羅漢像の数々。
天寧寺、五百羅漢像。
自分の顔に似た像が一つはあるはず・・・とお聞きしました。
天寧寺、桜田門外ノ変で井伊直弼公が籠の中で敷いていた実際の座布団!!
普段は公開されることはありませんが、今回、ご住職のご案内をいただき、特別に拝見させていただきました。
座布団の中心に虎の毛皮が縫い付けてありました。
質素で華美なものを好まないような印象もあったのですが、やはり権力を手にしてからは人が変わったようなところもあったのだろうか・・・と、思い巡らせてしまいます。
桜田門外ノ変があった安静7年3月3日(1860年3月24日)は、雪。
おそらく、寒さに備えて座布団の上に毛氈が敷かれていたので、斬りつけられた後もそれほど血痕が残らなかったのだろう・・・とはご住職のお話。
ご住職からお話を聴く。
天寧寺、井伊直弼供養塔。
桜田門外ノ変で暗殺され、跡継ぎが決まらぬままお家断絶になることを秘するためだったのか、血まみれになった直弼公の衣装や土など、四斗樽4杯分もの遺品が天寧寺に運び込まれたという。
彦根城、お堀端の井伊大老碑。
迫り来る異国の圧力と将軍継嗣問題、何が起こるかわからない中、命を落とすこともあるであろうと覚悟していたからか、自らの肖像を書かせ、歌を詠んだ。その歌の石碑。
「あふみ(近江)の海 磯うつ浪の いく度(たび)か 御代に こころを くだきぬるかな」
桜田門外ノ変で殺される年に詠まれた和歌もご紹介しておきましょう。
「春浅み 野中の清水 氷(こおり)いで 底の心を 汲む人ぞ 無き」
この年の正月に詠んだ歌だといいます。
あまりにも、寂しい、孤独な直弼公の姿が浮かんできます。
殺される前日に詠まれた歌もご紹介しておきましょう。
「咲きかけし たけき心の 花ふさは ちりてぞ いとど 春の 匂ひぬる」
死を覚悟していたとしか思えない、それでも救いと希望の気配を漂わせているところに感服せざるを得ません。
井伊大老碑、解説。
「安政七年(1860年)正月(同年三月十八日に万延と改元)、直弼は、正装姿の自分の画像を御用絵師 狩野永岳に描かせ、この自詠の和歌を書き添えて、井伊家菩提寺の清凉寺に納めたと伝えられる。
この歌は、琵琶湖の波が磯に打ち寄せるように、世のために幾度となく心を砕いてきたと、幕府大老として国政に力を尽くしてきた心境をあらわしている。
直弼は、この二ヶ月後の三月三日、江戸城桜田門外で凶刀に倒れた」
井伊直弼二百二歳のお誕生日に、井伊家18代ご当主、井伊直岳さんと語らう。
東京、世田谷の豪徳寺、井伊家のお墓。
豪徳寺の近くには何の因果か、相対した吉田松陰を祀る松陰神社があります。
その吉田松陰をして「まことに稀代の名君である」と日記にしたため、井伊直弼が彦根藩主に就任した時には賞賛を惜しまなかったというのですから、あちらでは和解して、この国のこれからを見守ってほしいものです。
さて、これからこの国はどんな道を歩んでいくのでしょう?
余談。
この写真は、昨年NHKの番組「ファミリー・ヒストリー」でも取り上げていただいた、松江の実家の初代、高祖父、古希祝いの記念写真(明治42年/1909年)。桜田門外ノ変から50年も経っていません。
代々医家の佐野家の屋号は“橘井堂(きっせいどう)”と云うのですが、その屋号で僕は自分のホームページ「橘井堂」(http://www.kisseido.co.jp)を開いています。
彦根で取材を受けた時、それを見た記者の方が、「親しみを感じるんですよね」と、おっしゃってくださいました。
「どうしてですか?」と尋ねると、「橘井堂の“橘”は彦根のシンボル、市の木。“井”は、やはり井伊家ですからね」と。
我田引水、申し訳ない!!
こちらは栃木県佐野市の天應寺。
佐野は彦根藩の飛領地で、2代藩主直孝、3代藩主直澄、そして井伊直弼の墓があり、直弼の遺髪が収められているそうです。
「大老井伊直弼公之墓入口」案内石塔。
井伊家のお墓は高台の一番上にあります。
井伊直弼150回忌の記念顕彰碑。
右から、直孝、直澄、直弼と並んでいます。
佐野の地は、元々は佐野家が戦国大名としてこの地を治めていたのを、徳川の時代となり彦根藩が領地としたそうです。
それにしても、なぜ?
2017年に放送されたNHKの番組「ファミリーヒストリー」で佐野家(ワタクシめの)のルーツを探っていただいたところ、出雲の地、斐川の旧家、春日家から分家したのが高祖父であったことはわかっていたのですが、佐野の姓が、その春日家と縁戚にある、やはり斐川の佐野家の姓を継いだのではないかということが判明。
乃木(松江市浜乃木)の地に行き倒れていた武士が、懐に佐野蔵大輔と書かれた書を持っていたことから、これを供養するという想いで、春日から分家した初代が春日ではなく佐野の姓を継いだ・・・と家伝書に残っているのですが、どうやら、これがアヤシイ。
出雲、斐川の春日家と縁戚にある佐野家の次男が分家するにあたり、幕末、その男が行方不明になったと斐川の佐野家の記録にあります。
まさにその男が乃木の地で倒れていた・・・からかどうかはわかりませんが、乃木の地に佐野家を開いた高祖父の想いを察するに、行方がわからなくなったその男に情けを感じ、佐野の姓を継いだのではないか・・・と一俳優としては、この物語を読み解いてみたくなるのでした。
つまり、佐野蔵大輔なる武士は存在していなかったのではないかと。
斐川の佐野家は、300年前、やはり斐川の熊野神社の神楽を取り仕切る鼕頭(どうがしら)を務めていた記録が残っており、江戸時代にはすでにこの地にいたことは確か。
戦国の世からの流れで近江国と出雲国のつながりを想うと、近江と東国、下野(しもつけ)、佐野のつながりも感じられます。
出雲神話を追えば、出雲~越~会津のルートもありますし、古代から現代までもが重なるようです。
もしも、佐野家のルーツが下野の佐野であったなら・・・などと様々な縁を想像してしまいます。
井伊直弼公墓碑。まだ新しいですね。
天應寺の井伊家のお墓は高台の一番上にあり、佐野の街を見渡せます。
栃木の佐野市が彦根領だったことにまつわる伝承が一つ。
水戸藩主、徳川斉昭は桜田門外ノ変で井伊直弼を殺めた水戸藩士たちを主導する存在だったことから、実は斉昭が持病の肺を患っていたため亡くなったのではなく、彦根藩を脱藩した小西義貞が仇を取るため殺害したのではなかったかという言い伝えが、その子孫の縁戚、 世良琢真著『大老の仇を討った男』に詳しく記されています。
また、野村しず(ウ冠に赤)一(かず)さんの小説『雪辱 真説・井伊直弼』にも、臨場感に溢れた描写で描かれています。
脱藩した義貞は東国に伝のある彦根領佐野の、水戸藩主邸に出入りしていた庭師に付き、中秋の名月の宴を狙って邸に忍び込み、宴席のお開きになった折、斉昭が厠へ向かい縁に出てきたところを刃物により殺害したといいます。
彦根藩の処遇にさし障りがあろうと、行方をくらませた義貞の伝承には信ぴょう性を感じます。
水戸藩としても、斉昭の暗殺という不名誉は、直弼暗殺同様隠さねばならないことだったと察せられますし。
故に『大老の仇を討った男』には、出版された1966年当時でも水戸では斉昭が亡くなった中秋の名月の日にそれを祭らないと記されています。
井伊直弼の故郷では桃の節句を祝わず、水戸では中秋の名月を祝わず・・・さて、どう読むか?
桜田門。
江戸城を出入りするのに通るのですが、これは門の内側。
外桜田門。前の門の外にあり、手前が外側です。堀を渡り場内へと向かいます。
観光客の方々やジョギングする人たちで、かなり往来がありました。
籠に乗った井伊大老が、この外桜田門へと向かっていたのでした。今年は東京も雪が積もりましたが、3月3日(新暦3月24日)になっても雪が降るとは・・・。
夕暮れの桜田門外。今の国会議事堂を観て、井伊直弼公はどのようにお感じになることでしょう?
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