2018年11月30日
入沢康夫さん、逝去 |
詩人の入沢康夫さんが10月15日に逝去されたそうです。
入沢さんは松江の出身で、小泉八雲とともに故郷を代表する、最も尊敬する表現者です。
常日頃から「言葉」は「音」であり、「音」は「言葉」以上に今ある姿を伝えるものだと言い聞かせてはいますが、それでも、それを伝えようとするのは、やはり「言葉」です。
現代詩・・・というと、今は最果タヒさんなど、スター性を持つ方も登場し、かえって若い世代にはすんなりと受け入れられるところがあるかもしれませんが、僕が高校生の頃も、一部ではあったとは思いますが、現代詩人たちはアンダーグラウンド演劇や映画人とともに、容赦無くものごとの奥底を掘り返す、憧れの存在でした。
けれど、当時、入沢康夫さんが松江の出身だという認識はなく、現代詩文庫の詩集もずっと後になって知人の方からいただき、読んだのでした。江國香織さんの小説『きらきらひかる』の基となった入沢さんの詩「キラキラヒカル」で再評価されていたから・・・だったような気がします。久しぶりに現代詩を読むときの怖いような甘美なような言葉に触れました。四谷シモンさんから「佐野は松江だよね?入沢さんも松江なんだよ」とうかがったことで、いっそう惹かれるようになり、『我が出雲・我が鎮魂』などで、故郷に対する想い、この世界に対する想い、歴史認識に、自分の想いも重ねてみておりました。
四谷シモンさんの、2014年に横浜のそごうデパートで開かれた人形展の入り口に人形とともに綴られていた入沢さんのシモンさんに送った詩「旅するわたし」は人形に言葉を与えた瞬間でした。
〜わたしは誰?誰?誰?だれなの?
そして ここ ここはどこ?
どこなの?〜
驚いたのは、今は世代を問わずインターネットでSNS上のやり取りは当たり前のことですが、2000年代半ばごろでしたでしょうか? 僕が入沢さんの詩のことを述べたのをご覧になったご様子で、このホームページにメールを下さったことでした。
それからしばらくして、入沢さんの現代詩のセミナーを聴講させていただく機会もいただき、『かりのそらね』を頂戴したことは大変光栄なことでした。
古事記、出雲国風土記や小泉八雲のことにも触れる入沢さんの土地と言葉への想いを目にするとき、私は小泉八雲の朗読を続けながら、いつか入沢さんの詩を声に出してみたいという衝動にかられていましたけれど、いまだに実行する勇気が得られないでいます。
入沢さんはこうおっしゃっています。
〜詩人は、詩を書くことを通じて、「自分の言いたいこと」を発見するのであり、読者は、詩を読むことを通じて、「自分の読みたいこと」を発見するのだ。そして、この「言いたいこと」「読みたいこと」は、それぞれ、作者、読者の個人性を含みながらも、それを超えて、普遍的な「真実」に達しているのでなければならない。つまり、作品は、読者にとっても「消費」の対象物ではなく、意味生産の「現場」なのであり、読者は、単なる受取手の座におさまっていることは許されず、主体的・積極的に身を乗り出し、生産にかかわらなければ、「詩」は雲散霧消してしまう〜
しかと受け止め、何が「身を乗り出すこと」であるのかを熟慮し、入沢さんの残された「言葉」を、これからも大切にしていきたいと思います。
ありがとうございました。
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