橘井堂 佐野
2020年4月11日

大林宣彦監督、ありがとうございました

大林宣彦監督が肺癌で亡くなられた。
八二歳。
もうずいぶん長い間、お会いしていなかったけれど、2月28日〜3月1日に開催予定の尾道映画祭で久しぶりにご挨拶させていただけるはずだった。
「転校生」「時をかける少女」「さびしんぼう」の尾道三部作の上映と、監督の最新作「海辺の映画館ーキネマの玉手箱」の上映に加え、監督のトークイベントも予定されていたのだ。 けれど、新型コロナウイルス感染対策により、尾道映画祭は中止。
シネマ尾道が予定されていたイベントの数々をなんとか実現したいと、いくつかは行われ、僕も林海象監督と「夢みるように眠りたい」の上映&トークイベントに参加させていただいた。
お会いできるのを楽しみにしていたけれど、監督はいらっしゃれなかった。
実は「夢みるように眠りたい」のシナリオには大林宣彦監督協力のクレジットがあった。
林海象監督が、初めての映画を撮るにあたり、大林監督に助言を仰いだ経緯があったからのようだ。
大林監督も、自主映画からスタートなさった映画人生だったし、まだインディーズ映画という言葉もなかった頃、林監督にとって大林監督は、映画製作実現の指針となる大きな存在であったのだろう。

大林作品には「はるか、ノスタルジィ」「青春デンデケデケデケ」の二本に参加させていただいたが、その後、ご一緒させていただく機会はなかった。
先日、尾道に訪れた時、関係者の方から監督が「佐野さんは声をかけにくくなっちゃったからなあ」とおっしゃっていたと伺った。
大林組に出演した映画は、撮影時、ドラマ「ずっとあなたが好きだった」で冬彦ブームが起こる前だったし、特に「はるか、ノスタルジィ」では、石田ひかりさんとの仄々とした恋心を描いたナイーブな家庭教師役で、アブノーマルな役を嬉々として演じ続ける僕には愛想をつかせていらしたのかもしれない。
できれば、もう一度、ナイーブな役所を大林作品で演じてみたかった。

日本映画の歴史の中で、大林監督の映画製作方法は、間違いなく日本映画の新境地を切り開いた。
先達の流れの中で、自分自身も生かされてきたことを忘れずに、これからも努めなければと思う。

大林宣彦監督、本当にありがとうございました。

橘井堂