橘井堂 佐野
2013年12月31日

大瀧詠一さん、ありがとうございました
大瀧詠一さんが、12月30日に亡くなられた。
解離性動脈瘤。
リンゴを食べていた時に倒れた・・・と聞いた。
「それはぼくぢゃないよ」と言って欲しい。
享年65歳。

1970年、はっぴいえんどとの1ファンとしての出会いから、今日まで、音楽から映画まで、多くのことを教わりました。
プライベートでも懇意の音楽番組プロデューサー湊剛さん(NHKラジオ「若いこだま」「アメリカン・ポップス伝」など)が幹事となって“大瀧会”が開かれ、年に一度は必ずお会いしていただけに、大瀧師匠の急逝は残念でなりません。
最後にお会いしたのは8月でしたか・・・。
「今度、LIVEのゲストで『颱風』を、鈴木茂さんとのLIVEでは他にも『びんぼう』や『12月の雨の日』『かくれんぼ』『春よ来い』『抱きしめたい』をやるので、お許しを・・・」と言ったら、「オヌシはオレの役をやるのだな」と言われたのが最後になってしまいました。
毎回、お会いする度に、話題となる題材に対して、ある時は厳しく問われ、またある時は真摯に話を聞いて下さり・・・と、文字通り、師匠のような存在でした。
メールでのやりとりも、マメな方だったので、ドラマの感想なども送ってくださっていました。
震災、津波を扱った映画「遺体」の時も、大瀧さん出身の岩手県、釜石市長の役だったのですが、すぐにメールを下さいました。
大瀧さんは「観光大使をしている」と、被災地の故郷を想いながらも嬉しそうでした。
一昨年のドラマ月9「リッチマン、プアウーマン」もとても楽しんでくださっていました。
僕の、IT企業を舞台としながらも、ラブストーリーと共に経済の実体のなさと役名とから連想される神話的解釈を読んで「なるほど!」とおっしゃってくださったことも嬉しかったです。
・・・どこかで、ものの見方、考え方、解釈の仕方の影響を大きく大瀧さんから受けていたのかもしれません。
去年大ヒットしたドラマ、「半沢直樹」「あまちゃん」などのヒットの分析も流石!!と唸らされました。
時代劇には歌舞伎役者が欠かせなかったように、時代劇の代わりとして求められた「半沢直樹」だからこそ、時代劇や歌舞伎の匂いが散りばめられていた・・・という解釈や、東北出身の俳優たちのリアリティによって「あまちゃん」も多くの支持を得ることができた・・・しかも、その要となる俳優の数は必ず「3」・・・大瀧師匠の分析を聞きながら、次々と展開する様々な話・・・落語、野球、アメリカンポップス、日本歌謡史・・・。
けれど、やはり僕とは映画の話。
ここ数年は古き日本映画の研究に没頭なさっていたようで、映画に携わる一俳優としても、学ぶことがとても多かったです。
特に成瀬巳喜男監督作品、成瀬組で助監督をしていた経歴もある石井輝男監督、そして僕の最も敬愛する小津安二郎監督・・・。
石井輝男監督とは「ゲンセンカン主人」「無頼平野」に出演させていただいていたので、現場でのお話は興味深く聞いてくださいましたが、「網走番外地」シリーズやラインシリーズなど、体系だてた話に中途半端に相づちを打とうものなら、こっぴどくヤラレたものでした。
それでもまた、ヘコタレることなく、大瀧会には顔を出し続けていました。
そんな図太さを大瀧さんは受け止めてくれていたことも嬉しかったです。
鈴木慶一さんに、はっぴいえんどの頃、「バッファロー・スプリング・フィールドとCCRとどちらが好きか?」と問われた時に、バッファローじゃ当たり前すぎるので答えに迷ったという話は、界隈では有名な話ですが、大瀧さんはそうやって相手を試しつつ、そのセンスや人格を見抜いていらしたようです。
スタジオでのエピソードもキリがなく・・・。
「3コードのロックンロールやるのに、譜面なんか見るなよ!!」
と、何よりも身体の感覚を第一にしていらしたのも、批評性の高さとは裏腹に印象的でした。
ああ、エピソードを語り出したら本当に一冊分になってしまう。
・・・そんな大瀧会は10年以上も続いていました。

最初にお会いしたのは20年ほど前でしたか?
FM横浜がハマラジになった時のゲストとして大瀧さんから招かれたのでした。
1970年にレコードで聴いた中津川フォークジャンボリーの実況録音盤に入っていた「12月の雨の日」で、はっぴいえんどに取り憑かれ、翌年は実際にフォークジャンボリーに出かけ、かぶりつきで観ていたこと。
はっぴいえんど解散後もソロアルバムからNIAGARAレーベルの作品の数々を聴き、ラジオ「GO!GO!NIAGARA」もラジオ関東で最初から聴いていたこと、数少ないLIVEにも足を運んだこと・・・想いの丈を吐き出したことをよく覚えています。
調子に乗って、高校時代にやっていたバンドの、はっぴいえんどのカバー「春よ来い」の音源をカセットテープで聴いてもらったことにも感激!!でした。

僕がソロアルバムを出した時のLIVEにも来てくださいましたっけ・・・
。 2009年にリリースされた、女性アーティストだけによる大瀧詠一トリビュートアルバム「A LONG VACATION from Ladies」の記念コンサートの司会を任されたのでしたが、あの時は、曲やステージの構成などの演出にも加わらせていただいた他、「FUN×4」で大瀧さんが一声、参加していたvoiceの役も任され、嬉しいやら緊張するやら・・・。
打ち上げでは大貫妙子、金子マリ、太田裕美、今井美樹、尾崎亜美、鈴木祥子、原田郁子、イシイモモコ、行川さをり・・・といった女性ヴォーカル陣に囲まれ、珍しく目尻が下がっていましたっけ。(目尻が下がっているのは始めから?^^")
ダメだ・・・止まらないや・・・。

実は、はっぴいえんどのメンバーのなかでは、最初にお会いしたのは細野晴臣さんでしたが、ミュージシャンの方々のなかでもお会いしたことがない・・・という方が少なくないのに、最初に親しくさせていただいたのは大瀧さんでした。
その後、松本隆さんのサイトで対談させていただいたのを機に、作詞家デビュー30周年を記念したLIVEに出演させていただいた折、あらためて細野さんや鈴木茂さんともお会いするようになった経緯でした。
メンバー同士でもずっと会っていない・・・というのに、いや、だからでしょうか、僕がメンバーそれぞれの方に近況をお伝えすることもありましたっけ・・・。
そういや、ここのところ、くるりのLIVEで細野さんとお会いしたり、僕のラジオ番組に松本さんが出演してくださったり、茂さんとLIVEをしたり・・・大瀧さんともお会いしたばかりだったのに・・・返す返す残念でなりません。

もう一人の師匠、遠藤賢司さんが10枚組の実況録音大全をリリースなさり、細野さん、茂さん、林立夫さんも出演なさったエンケンの記念のLIVEに大瀧さんをお誘いした時、LIVEには顔をお出しにはなりませんでしたがエンケンに対しての惜しみない賛辞を送っていらっしゃいました。
遠藤賢司、細野晴臣、松本隆、鈴木茂、林立夫・・・を語るとき、それぞれへの心からの敬意を示していらっしゃいましたが、それも、それだけで一冊埋まってしまいそうです。
もう、ほとんどのろけ話のようでした。

「『12月の雨の日』は、詞と曲、どっちが先だと思う?」
自他共に熱狂的なはっぴいえんどフリークの僕に、答えられぬ筈はないと、目の奥が僕を試そうと笑っていました。
「詞ですよね?」
松本さんとお話していて、音数に併せて歌詞を求められたエピソードも聴いていたけれど、初期のこの作品は松本さんの最初の書籍「風のくわるてつと」を何度も読んでいたし、まず、詞が先に違いないと思ったのでした。
大瀧さんはニヤリと笑い、こう言いました。
「同時だよ」
なんだそりゃ!?
松本さんと大瀧さんが犬猿の仲だと云われてはいたけれど、ロンバケやEACH TIME での、もちろん創作のぶつかり合いはあって当たり前だろうけれど、松本隆という作詞家がいなければ大瀧さんもまた、あの名盤、名曲を生みだすことができなかったことを心底、骨身に感じていらっしゃるようでした。
細野さんのベーシストや作曲家としての才能、茂さんのギターへの全面的な信頼、林立夫さんへのドラマーとしてはもちろんのこと、その批評性の高さ・・・それを受け止め、見守り続けた大瀧詠一という人物。
彼らの音楽に触れ続けてこれたことの幸せも、すべては、あの「12月の雨の日」から始まっていたのでした。

どうか、安らかにお眠り下さい。
そして、大瀧詠一さん、本当にありがとうございました。

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★大瀧会にて。誰よりも長生きするに決まってる!!と思いながら、いつもお会いしていました。

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★何度もUPしておりますが、1971年、岐阜県、中津川、椛の湖畔で行われた全日本フォークジャンボリー、サブステージにて。 初めての、はっぴいえんどのLIVE、そして大瀧詠一さんを目撃した時!!

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