2019年3月28日
織本順吉さん、ありがとうございました |
織本順吉さんが亡くなられた。
娘さんである放送作家の中村結美さんによると、立派な老衰だったそうだ。
92歳。
僕の父親は75歳で他界したが、織本さんとは同い年だった。
戦前戦中に少年時代〜思春期〜青年期を過ごした世代の心の葛藤は、いまだに想像しきれないものがある。
僕が10代の頃、テレビドラマの織本さんは、中小企業の社長や管理職といった役柄の印象だ。
上と下とに、会社と家族の間に挟まれて鬱屈したような佇まい。
そこには、戦争の影はなかっただろうか?
松林宗恵監督の戦争映画「人間魚雷回天」でのナイーブな青年軍人は強く心に残っている。
あの映画の出演者たちは何十年も同窓会を続けていらしたそうだ。
それほど思い入れの深い作品だったのだろう。
僕が生まれた昭和30年(1955)の製作。
まだ戦後10年ほどに作られた映画は、「ゴジラ」などもそうだが、俳優たちの中に戦争の空気がまだ生々しく残っていたのだ。
311以降に数多く作られている震災にまつわる映画などで演じる時に、あの時の感覚が蘇ってくるように。
もちろん、戦争と自然災害を同じに語る事は出来ないかもしれないけれど、原発事故のことを想うと、敗戦以降もずっと戦後が続いていることを改めて感じさせられる。
織本さんとは何度か共演させていただいているが、最後に共演させていただいたのは似内千晶監督「物置のピアノ」(2014)。
震災と原発事故により揺れ動く家族、姉妹、地域の人たちの心に寄り添いながら丁寧に描かれた作品だ。
実際に福島でロケ撮影が行われ、撮影中にまだ地震が起こったりもし、仮設住宅での撮影では中学生の息子を持つ父親役の僕は、その役の通り、虚脱状態に陥るような感覚にも襲われた。
地元の人たちとの交流もあり、放射能汚染されていると桃農家の桃を敬遠する人たちのシーンのことなども熱く語ってくださっていた。
織本さんは、昔の故郷よ戻れと訴えるかのように、終盤の体育館での演奏会のシーンで「ふるさと」の「うさぎ追いし〜」の歌詞を口になさった。
老人の役ではあったけれど、撮影中、誰よりも生き生きとしてたように見えた。
なぜだろう?
織本さんとの一番の思い出は、1999年に撮影していた僕の初監督作品「カラオケ」。
中学時代の同級生が30年ぶりに同窓会で集まり、二次会にカラオケに行って過ぎ去りし少年時代と今を行き来するお話。
長野の諏訪での撮影。
織本さんは諏訪湖畔の街の写真館の老主人役で、写真館を守ってきた佇まいが、物語にリアリティを与えてくださっていた。
写真館を舞台にしたのは、フイルムを通して変わりゆく時代、映画館と重ね合わせていた構造も意識してのことだった。
製作陣にわがままを聞いてもらい、35mmフイルムで撮影、編集もテレシネではなく、フイルム編集にこだわった。
織本さんは、僕が映画を撮っている様を微笑ましく見守ってくださっていたが、打ち上げでは「嫉妬した」とおっしゃったのが強く心に残っている。
励ましのお言葉として、とても嬉しかった。
同時に、ものすごい生命力の俳優さんなのだなと思った。
織本順吉さん、安らかにお眠りください。
本当に、ありがとうございました。
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