自分はさておき、個性豊かな俳優陣がズラリと並び、NEXT INNOVATIONの社員ひとりひとりにまで演出部のみなさんが、形だけでなく、「この“空気”を感じて欲しい」と丁寧に指示を出している姿を観るにつけ、なにか目には見えない、けれど、どうしても伝えたいことがある・・・という、集団無意識を感ぜざるを得ないでいます。
「それは何なのか?」
オシャレでスタイリッシュな月9のドラマの匂いは決して失わずにいながら、このドラマは、どこか不安定な現在の社会情勢を乗り切るための、その本質を見極めようと探っているようにも感じられるのです。
昨年の3・11以降、ほとんどの国民が抱えているであろう不安な気持ちや見通すことの出来ない未来像に対し、どうひとりひとりが向かいあえばよいのか?
最初に台本をいただいた時に、すぐに、その、日本神話や遠野物語、日本霊異記などに記されている伝説ゆかりの登場人物名や、古事記以前のクニが成り立つ以前の素朴な、自然と人々の暮らしが一体となっていた頃の情景を想いおこさせる役名に、「このドラマは現代の神話なんだ!」と、合点がいったのでした。
また、第一話からのシンデレラストーリーそのままに、“靴=足を使う”を介在させることで、千尋が差し迫った問題を乗り越えて行く姿が「ファンタジー」として、観る者を、この、現在進行形の「現実」と向かい合わせ、つなげ、「今ある神話」の世界に誘ってくれるようにも想われるのでした。
「経済、恋愛」・・・実体のない世界として、現実に生きながらも、それらが、実ははかなく、壊れやすいものであることは、誰もが皆、実は当然気づいていて、けれど、それでもそのことを受け止めながら、現実に生きる上で、とても大切なものとして捉えていることでしょう。
この「経済、恋愛」といった「形のない」世界が、はかないものであることは、皆が共通認識を持ちやすい。
しかし、このドラマでは、さらに、家族、血縁、地域、共同体、国家、さらには地球の存在そのものでさえ、「はかないもの」として、容赦なく提示しているようにも思えてきます。
日向徹が「人の名前を覚えられない」ということは、それらの象徴なのでしょうか?
「何かを規定しなければ、言葉を与えなければ、自分自身と相手や周囲に存在するものとの間には他者と共通認識できるものは何もない」
その「社会」の自然発生的なルールをあらためて問い直している・・・とでも言いましょうか・・・?
千尋が社員であるかそうでないことかによって、事務次官の藤川(富士山を源流とする水流)と日向(宮崎、東征のヤマトタケル)は対立し、相反する二つの世界を結びつけ、通底させようとする仕事の目的遂行が遮蔽されてしまう。
「国家」と「形を持たない不特定多数をイメージしてしまう『国民』」を結びつけようとするものが、「(会社員や国家公務員という)形を持つ」ように見えるものと、そうでないものとの差異だけによって目的遂行が遮断されてしまう・・・?
「いったい何のための仕事なのか?」
そんな素朴な疑問や問いかけが、現実にどう対応してよいかわからずに、ならば、とにかく、なにか声をあげずには、行動をおこさずにはおれないとデモに参加することにも違和感を感じている釈然としないテレビモニターの前の視聴者のみなさんや、様々な想いを抱え、あるいは行動を取り続けるみなさんに向けて、シンプルに届けと祈りつつ演じるばかりです。
最先端のIT企業を舞台としながらも、日向(天孫降臨、大和民族)、朝比奈(怪力、朝比奈太郎。東北の蛭夷を倒した田村麻呂)、山上(山の神=オオカミ、お犬様)やNEXT INNOVATIONの社員たち(安岡、小川、細木、小野・・・山あいの里を想わせる縄文人)、そこに使える宮前(その名のとおり、お宮の前の巫女さん?)や立石(墓石か?ストーンサークルか?千尋との差異を際立たせている)らと千尋(海よりも深く、山よりも高く)たち、あるいはレストランのチーフ燿子(カガヤケル存在、天の岩戸に隠れたアマテラスか、あるいはヒミコか?)と対立する乃木の存在は、映画で言えば昭和の仁侠の世界とも通じているように見えます。
「兄弟分」「筋が通らない」「裏切り」「姉さん」「国家を相手に立ち向かう」「昔の流儀がすたれる」・・・等々。
失われてしまった神話の世界や古代、ついこのあいだまでは成立していたかのように感じられていたかもしれない、家族、地域、国家・・・それらが電源を失ったPCや端末機のように、目の前でかき消えてしまうとしたら・・・?
これは国家を相手にした、はぐれ者たちの組の挑戦のようにも見えます。
パーソナルファイルのインターフェイスプログラムが国のプロジェクトとして成立したら、それを開発した者や手にした者はどのような力を持ち、どのような行動に出るのでしょうか?
この、国家を相手に立ち回る「組」の動きと、孤高の日向徹の道行きは、まさに「平成残侠伝」!
筋を通す姉御に対し、男衆はどう応えるのか!?
日向徹が「無縁、公界」である寺にいること。
そこにいる住職が、苗木という名の、大きく育つのか、枯れてしまうのか、その木に実るものは口にする事のできるものなのか、あるいは、毒なのかわからない存在であること。
燿子が、恋愛にせよ経済にせよ、実体があろうがなかろうが、生きるために最も必要な「食」に携わっていること。
農業とITを対比させ、里山から稲作、そこからさらに企業としての農作物づくり・・・と、古代から現代までを、「食」の持つ「経済」と「命」の両方の力を認識させながら、「クニ」のあり方を辿らせ、失われてしまったかもしれない、けれど、まだ、そこかしこに根強く残っていると信じたい、この「土地」の、そのあり方を問い直しているようにも見えること。
また、日向徹の実の母親こそが澤木千尋であり、NEXT INNOVATIONの臨時契約社員の澤木千尋は澤木千尋ではなく、夏井真琴(真実を現す存在)であることは、一人の人間が、ひとつの現象が、真実と虚偽=現実と虚構を入れ子構造にしていることを示唆しているようにも思えます。
確かに澤木千尋は、真実と虚偽を問わず、共に漁村に育ち、「海」にいることで、この物語全体を「漁業」と「農業」とに対比させ、「都市」を浮び上がらせています。
そして、「海」×「山」の構造から、古来の経済の流れと神々のあり方を想い起こさせます。
海と山を入れ子にして、流通させ(経済)、「食」を通して「命」を守る。
そこには目に見えなくとも、確かに人々の日常の営みだけでは認識することのできない神々がいるようです。
「命」と「経済」を、連鎖しているものとしてではなく、対立するものとして語りあわれるかぎり、現在進行形の、エネルギー問題を発端とする「経済」と「命」の問題が解決されることはないということを、それらは示しているのかもしれません。
人が「火」を手に入れた時からの「神話」は今も続いているのでしょう。
「食」をめぐる「経済」「命」「火」・・・それらと向きあう時に、どうして良いか途方に暮れ、だから山上は、ただひたすらにペットボトルの「水」を飲み続けているのかもしれません。
もっとも根源的な人々の営みに、今一度立ち返り、けれど、決してもう戻れない神話や想い出の世界に生きるのではなく、地に足の着いた「現代の神話」として、ひとつひとつの出来事に向きあい続けるしかないのでしょう。
日向と朝比奈のあり様に、今後の日本を観る!・・・というのは言い過ぎでしょうか?
澤木千尋が大いなる母として世界を包み込み、朝比奈燿子が世界を照らす・・・。
闇と光を、生と死を、分け隔てない「クニ」とは?
「食」をめぐって、万人が「命」と「経済」を分け隔てずに、対立させずに理解しあい、与え、受け取ることのできる世界とは?
その答えを「神話」から読み取ることができるでしょうか?
さあ、物語りに戻れば、パーソナルファイルが流出したらどうしよう!?
サイバーテロは、現実に起こっていることだとはいえ、これを手にしたら、それぞれの登場人物はどう行動するのか・・・?
スパイとなって他国に売るのか、国家中枢に入り、国を動かし始めるのか?バックアップもなにもかも、データを失い、また一から始めるのか・・・?
あるいは隠遁するのか・・・?
「情報」は「水」のように流れ続け、手ですくおうとも、指の間から漏れ、器を失えば「土地」に染み込み、「海」へと還る。
そして形を変え、別の姿となって、また現われる。
「神話」もまた、そうして何度でも姿を変え、現われるものなのかもしれません。
生きているかぎり、その姿から読み取ることを続けるしかなさそうです。
そして、この「神話」。
日向徹が母と出会えるハッピーエンドを望む気持ちもありますが、結末は、今、我々が、この世界に対してどういう態度と行動を取るべきか・・・?の答え次第によって、如何ようにも受け止められる物語なのかもしれません。
私にとっても20年目の「マザーコンプレックス」の物語とも言えそうです。
さて、これからどう展開していくのか?
最後までおつきあいのほど、よろしくお願いいたします。
平成24年夏
佐野史郎 |