橘井堂 佐野
2020年3月31日

佐々部清監督、逝去

佐々部清監督の訃報が届く。
1999年、私の初監督映画「カラオケ」でチーフ助監督を務めてくれた。
ちなみにセカンドは瀧本智行。
そう、なんと、あの時、後に才能を発揮する監督二人が、助監督を務めてくれていたのだ。
TBSの連続ドラマ「青い鳥」の流れで映画の企画が浮上し、監督に挑むことになったのだが、「青い鳥」で長野の諏訪に半年ほど通っていたこともあり、古き良き日本の風景や街並みの残る諏訪を舞台に、中学の同窓会をモチーフにして撮影に臨んだ。
佐々部とも、瀧本とも、よく議論し、任せるところは丸投げで任せたこともあった。
「カラオケ」のラストシーン、エンドロール、夕暮れの諏訪湖を見下ろす高台でフイルムを回した。
テーマ曲、カルメン・マキさんが歌う寺山修司作詞の「戦争は知らない」をラジカセから流しながら、スタッフの誰一人口を聞かずに、黙って湖をみていた時間を忘れない。
涙が滲んでいたのだ。

佐々部清監督となり、「半落ち」などのヒット作を続け様に作っていたのは周知の通り。
俳優としては、大御所の貫禄の佐々部監督は、もはや近寄りがたい存在であったけれど、それでも2012年にはテレビ朝日の松本清張スペシャル「波の塔」ではお声をかけていただき、久しぶりに共に現場を過ごし、幸いだった。
あの時、太秦の東映京都撮影所で撮影していたのだけれど、刑事部屋のセットを撮影し終えた直後に漏電が原因で消失。
貴重な昭和の映画を支えた小道具たちも消えさってしまった。

今月、フェイスブックのメッセージで、佐々部監督と久しぶりにやりとりをし、また、一緒にやろう!!と話しあったばかり。
日本の映画界やテレビ業界のシステムに依存しない映画づくりをするしかないと、プロデュースも兼ねた「八重子のハミング」のように、次も資金を集めて作品に入るのだと、シナリオ執筆中の様子を知らせてくれていたのに・・・。

今の段階で、死因はわからないのだけれど、共に現場を過ごした人たちは、おおらかで人情味溢れるあなたを忘れることはないだろうし、作品も残る。
日本中が、世界中が、混沌とし、そんな中、あなたが亡くなってしまったことは残念でならないけれど、共に過ごした、幸いな、生き生きとした時間を与えてくれたことに、深く感謝します。

ありがとうございました。
どうか、安らかにお眠りください。

合掌。

橘井堂