★1955年
3月4日/佐野史郎、山梨市に生まれる。魚座B型。
その2週間後から2才まで東京・代田橋で、7才まで桜台で育つ。
★1958年
(3才)
このころ父親の影響からか3歳にしてバイオリンを手にし、7歳からは先生にも付き、以後12歳まで練習し続けるが、結局テキスト3冊しかこなせず、しかもヴィブラートがかけられないのを苦にし断念。
★1962年
(7才)
島根県松江市に帰り、乃木小学校1年生の3学期から編入。
★1964年
(9才)
父に連れられ、幻の天丼屋「天要」で衝撃的な美味しさの天丼と遭遇。このとき、江戸川乱歩の少年探偵団シリーズ「電人M」を買い与えられる。
★1965年
(10才)
夏/独学でウクレレをはじめ、「タフワフワイ」「カイマナヒラ」など数曲をマスターする。ただし、人差し指をストローク中に傷め、膿んでしまい、嫌になる。このころ、ビートルズをはじめて聴いている。
★1966年
(11才)
この年、松江にきたスパイダースを観にいき、生のロックに感激!! ムッシュの白いテレキャスターに憧れた佐野は、ムッシュに手を振ってもらったと大喜び。
自分もバンドを組もうと決心。バンド名はTV番組「題名のない音楽会」をもじって題名のないバンドと命名。
★1967年
(12才)
謝恩会でフナキマサヤのバンドとジョイント。フナキはビートルズの「ツイスト&シャウト」を絶叫! 題名のないバンドは「かあさんがー、よなべーをしてー…」をカンバ君が唄う。
4月/島根大学附属中学校に入学。深夜放送のオールナイトニッポンを聴き始め、糸居五郎のDJにシビレ、ロックに狂う。ビートルズの「アイム・ダウン」をよく口づさみ、この頃から「バンド組もう!」が口グセだった。
★1968年
(13才)
ドラムをかじるが、よくわからなくて挫折。中学校の文化祭で3年生のロックバンドが演奏直前に中止させられ、体勢(原文ママ)に反発心を持つ。
★1969年
(14才)
中学3年生の佐野は、クラス対抗合唱会で2年生がギターを弾き、フォーククルセイダースの「戦争は知らない」を合唱するのを聴き、やはりギターはカッコイイと思う。
この年、1年生の一人が三里塚の成田闘争に参加し停学になる。佐野はますます、権力を意識する(原文ママ)。
★1970年
(15才)
3月/中学卒業の春休みにクラスメイトのイイヅカノブユキにギターを教わる。「イムジン河」「ドナドナ」「スカボロー・フェアー」などをマスター。
4月/大東高等学校に入学。ロックの話の合うタカシマとバンドを組む。バンド名は不明。何度か練習するが発表の場はなかった。
11月25日/ビクターの「全日本フォークジャンボリー'70」のライヴアルバムではっぴいえんどの「12月の雨の日」を聴きとりこになる。岡林信康+はっぴいえんどの演奏を繰り返し聴き、他に遠藤賢司の「夜汽車のブルース」にもブッとぶ。
★1971年
(16才)
4月/大東高等学校から松江南高等学校に1年生として編入。後にバンドを組むことになる小豆沢茂、小川功などと同級生になる。佐野の体育の時間の身体の動きから、小豆沢も小川も佐野が小児麻痺だと信じ、少しかわいそうな気持になった。
佐野、小豆沢の二人でアコースティック・ギター二本のバンド独苦(ドク)を結成。しかし、名付け親である小豆沢によれば独苦ではなく毒(ドク)だったことが25年後に判明した。
8月/佐野、夏休みに中津川フォークジャンボリーにギター片手に一人ででかけ、サブステージで「カム・トゥ・マイ・ベッドサイド」を唄う。はっぴいえんど、DEW、乱魔堂、友部正人、あがた森魚、遠藤賢司、三上寛に感動しカルチャーショックを受ける。なお、このライヴアルバムのジャケットには佐野のバッグが映っており、はっぴいえんどの演奏の合間に「ええど、ええどー」という佐野の声が入っている。
文化祭で毒の演奏。毒はこの他にも、他校の文化祭やラジオの公開録音などに出演したりしていた。松江フォーク連合に入り、定期的に島根県民会館などのステージに立つ。はっぴいえんどの「春よ来い」「かくれんぼ」「12月の雨の日」、遠藤賢司の「ほんとだよ」「カレーライス」「おやすみ」などは評判がよかった。
T.レックス、頭脳警察を意識しエカ(小川)をボンゴとしてバンドにいれ、宍道のアズキ(小豆沢)のホコリの積もった部屋で練習。このとき録音した「春よ来い」は、後に佐野がラジオ番組でいっしょになった大瀧詠一氏に大胆にも聴かせてしまい、鈴木慶一の「春よ来い」よりうまいとほめられた。
★1972年
(17才)
3月/佐野が小川の中学校の同級生だった周藤芳行をバンドに引き入れ、エカにベースを買わせてロックバンドを結成(佐野Vo/EG、小豆沢EG、小川EB、周藤兄Dr)。全員はっぴいえんどに入れ込んでいたのでウィンド・シティ(はっぴいえんどの2ndアルバム『風街ろまん』より命名)とする。
ガレージ・パンクの先鞭をつけるかのように、エカの家のかまぼこ工場の倉庫で練習。以後、1974年の卒業まで、バングラデシュ救済コンサートなど多くのステージをこなす。曲目・春よ来い/12月の雨の日/かくれんぼ/颱風/びんぼう/あやか市の動物園/はいからはくち/朝/抱きしめたい/愛餓を/ほんとだよ/ミルクティーなど。
★1973年
(18才)
佐野、小川は同級生の女の子たちと「吸血鬼同盟」を結成。牛の血を呑みに行こうと計画するが、内科医である佐野の父親に危険だと言われ断念。手首に包帯を巻いて登校してくる彼女達に圧倒される。
★1974年
(19才)
4月/上京し美学校の中村宏油彩画工房で絵を学ぶと共に芝居をはじめる。フェルナンデスのストラトキャスター(ホワイト)をローンで買い、ヘッドのネームをうまくフェンダーに描き変えて使っていた。
★1975年
(20才)
5月/出口典雄主宰の劇団シェイクスピアシアターの創立メンバーとして、渋谷ジャンジャンで初舞台。
★1976年
(21才)
シェイクスピア・シアターの旅公演のギャラでフェンダーのストラトキャスター(アームレス/ホワイト)を購入。佐野はこの頃、原宿のロック喫茶キング・コングで(後に妻となる)石川真希を見かけている。
この時期、ウィンド・シティはジェームス・テイラーのバックバンドとして有名だったセクションのコピーをしており、一時パーティと名前を変えていた。曲目・ドック・オブ・ザ・ベイ/レイ・レディ・レイ/CHOO CHOOガタゴト/はいからはくち(CITYライブ・ヴァージョン)など。
★1977年
(22才)
4月/シェイクスピア・シアターのバックバンドに、元サードのイイヅカEGや元猫の内山氏Dr、ユーミンのバックバンドだったコズミックララバイの石山EB、成沢Drなどが参加、佐野はミュージシャンとの交流に嬉しくなった。
★1978年
(23才)
4月/佐野、小川、周藤兄の3人が国立の駅前のマンション(庭付き)でいっしょに暮らしはじめる。
国立に小川が大学の同級生の嶋田(のちの久作)を連れてきてみんなに紹介。異常に発達した骨格を見るなり佐野と小豆沢が「サイボーグみたいな奴だな」と笑ったことからサイボーグ嶋田の芸名がつく。嶋田はシンセサイザーでウェイン・ショーターやジョン・コルトレーンのフレーズを弾きまくり、しょっぱなから異能ぶりを発揮。すぐさまキーボードでバンドに参加することになった。国立には小豆沢、嶋田、アキタカなど常駐するようになり、エカはいつもシンセサイザーを弾いていた。
12月31日/周藤兄や佐野がアルバイトをしていた高田馬場マイルストーンにてウィンド・シティ(佐野Vo/EG、小豆沢EG、小川EB、周藤兄Dr、CYBORG嶋田Key、小園久美子EP、木下みどりVo)のライヴ。曲目・失恋はクセになる(サザン・オールスターズのような佐野のオリジナル曲)、ソーファー・アウェイ、ミス・ユー、鈴木茂のSNOW EXPRESS、氷雨月のスケッチ、ミルトン・ナシメントの曲などを演奏し、どちらかといえばフュージョンよりであった。
★1979年
(24才)
10月/高田馬場マイルストーンでヒステリック・ハイポコンドリアックス(佐野Vo/EG、小豆沢EG、小川EB、周藤兄Dr/SynDr、CYBORG嶋田Syn、小園久美子EP/Dr)とボストンテリア(シェイクスピアシアターのメンバーを中心にアキタカEBが参加)のライヴ。ヒステリック・ハイポコンドリアックスはディーボの「サティスファクション」のアレンジで岡林信康の「コペルニクス的展開のすすめ」を、YMOの「デイトリッパー」のアレンジでビートルズの「ヘルタースケルター」、ウルトラヴォックスの「スローモーション」、YMOの「東風」、「格闘技セッションのテーマ」などを演奏。バンド名も変わり、パンク、テクノの影響が如実にあらわれたバンドだった。
石川真希、幼少時より続けていたスケートを捨て、突如唐十郎主宰の劇団状況劇場に入団。500人以上の応募者のなかからいっしょに入団したなかに飴屋法水がいた。安保由夫、四谷シモンらと出会う。
佐野、シェイクスピアシアターを退団。
★1980年
(25才)
状況劇場に佐野が入団。石川、飴屋と共に安保由夫のもとで劇音の仕事にたずさわる。
5月9日~7月6日/状況劇場『女シラノ』に出演。
11月1日~30日/状況劇場『鉛の心臓』に出演。
★1981年
(26才)
3月/石川真希がたまたま雨宿りではいった喫茶画廊で、数日後から人形展をやることを知る。後日、その店で人形作家である夢野ワンダと出会い、夢野が四谷シモン人形学校の生徒であることを知る。
5月18日~7月12日/状況劇場『お化け煙突物語』に出演。
10月/石川が、両国でおこなわれていた状況劇場の公演『黄金バット』(10月17日~11月29日)を観にきた夢野を、終演後の紅テントの宴会に誘い、佐野に会わせ、音楽の話で意気投合する。作曲家の安保由夫氏が退団したため、この公演では佐野が急遽作曲の一部を担当。小室等、石川鷹彦氏らと共に劇中歌のカラオケを初レコーディング。ギターも弾く。
★1982年
(27才)
4月17日~6月27日/状況劇場『新・二都物語』に出演。
石川が、佐野、小豆沢、小川、アキタカを誘い夢野の参加していたバンド、小平チューンナップスのライヴを観にいき、みんなファンになる。タイムスリップで演奏された「小平の女」「五月の唄」「ねぇ大好き」などはこのころすでに演奏されていた。
9月17日~10月10日/状況劇場『二都物語』に出演。
10月1日~10月17日/状況劇場『新・二都物語』に出演。
★1983年
(28才)
この年あたりから、佐野と石川は遠藤賢司のコンサートに足繁く通うようになり、10月には遠藤賢司が紅テントをたずねてくる。
10月1日~11月6日/状況劇場『住み込みの女』に出演。
12月26日/下北沢スーパーマーケットにて、アフロポップを基調にしたアンディサイドUNDECIDE(小豆沢Vo/EG、嶋田Key、小川EB、周藤兄Dr、嶋田弟EG、加藤和美Vo)のライヴ。佐野もゲストで「ヘルタースケルター」を唄う。このライヴで佐野のバンド魂に再び火がつく。
★1984年
(29才)
2月/夢野、小平チューンナップスを辞める。
佐野がバンドを組みたいと石川に言い出し、阿佐谷の喫茶店TOMに夢野を呼びだしバンドに誘う。
3月4日/南阿佐谷の佐野のアパートで練習(夢野ワンダVo/EG、石川真希Vo/Key、佐野Vo/G)。佐野の状況劇場における最後の舞台となった『あるタップ・ダンサーの物語』(4月20日~5月27日)で、石川は13年ぶりに復帰した四谷シモンと姉妹コンビを組む。その間に佐野がバンド名をタイムスリップと命名。
5月/タイムスリップはじめてのミーティング(夢野、石川、佐野、小川)を、原宿の今はなきピテカントロプスでおこなう。
デモテープ作成(夢野、石川、佐野、小川)。曲目・コペルニクス的転回のすすめ/五月の唄/なんだなんだブギ/いい娘だね。しかし、小川がペヨトル工房の仕事が忙しくなったため、ベースに嶋田久作が参加しオリジナル・メンバーとなる。
8月/佐野が状況劇場から逃げだし、当時西荻に住んでいた周藤アキタカのところに身を隠す。
8月7日/新宿モリエールにてボストンテリア(アキタカの参加するバンド)とともにライヴ(夢野、石川、佐野、嶋田EB、小豆沢EG、周藤兄Dr)。
8月14日/新宿モリエールにてライヴ(夢野、石川、佐野、嶋田)。
8月/目黒ばんりゅうじスタジオにてレコーディング(夢野、石川、佐野、嶋田)。
11月22日/渋谷TAKE OFF7にて、遠藤賢司のライヴにゲストとして出演(夢野、石川、佐野、嶋田)。
12月5日/浅草観音温泉でエンケン&ワッショイ軍団に参加。
12月6日/エッグマンでの遠藤賢司のライヴに佐野EGと嶋田EBがゲストとして参加。ここであがた森魚のスタッフをしながら、映画の準備をしていた林海象と出会う。
〈このあとのことは、佐野の自伝的エッセイ『こんなところで僕は何をしてるんだろう』〔角川書店)を読むことで、勘弁して下さい。→残念ながら在庫終了です)