昨年暮れに、佐野が松本隆氏のホームページの開設を知り、さらに自分の名前まで出ているという噂まで聞いたから、さあ大変。さっそく「風待茶房」を訪れると、松本氏宛にメールを書き、両方のホームページでそれぞれ対談を掲載することとあいなりました。
○はっぴいえんどにいたるまで
佐野◆1960年代終りに、加藤和彦さんと松山猛さん、岡林信康さん、エンケン(遠藤賢司)とかいたわけですよね。彼等の日本のその後のミュージックシーンに与えた影響ははかりしれないと思うんですよ。
74年にユーミンを渋谷のジャンジャンで観たときに「一番影響された作詞家は松山猛さん」だと言ってましたしね。会ったときにそのことをいくら振っても絶対に返事してくれないんですけどね。(笑)昔のユーミンのバックバンドのダディー・オーとかコズミック・ララバイの話をしてもあんまり返事しないんだよね。(笑)
一方でジミヘンやドアーズやジェファーソン・エアプレインとかサイケデリックというかアート・ロックが好きだったし、ドノバンも好きだったから、やっぱり日本でそれに対抗できる人たちと言えばエンケンとかジャックスになりますよね。
それで、まあ松山猛さんの詞とか好きだったんです。あとは散文だけど岡林さんの詞。
★30年前の中学校時代に知った、はっぴいえんどの松本隆氏との念願の対面。 |
松本◆彼はね、まず飛び抜けて優れた歌手なんですよ。今までボクが会った日本の歌手の中で一番上手い。やっぱり、岡林信康と井上陽水。こいつはいい声してるなーと思った。
佐野◆それで、中学生の時にエンケンとか岡林さん、早川義夫さんが好きだったわけです。
松本◆はっぴいえんどの中でボクだけ早川義夫が理解出来たんですよ。岡林信康も理解出来た。細野さんとかは理解してても、「してない」と言いきっちゃうから。バックをやるのは、純粋にお金のためだと言いますよね。ボクは心情的に、岡林のヘタウマな世界がいいなっていうか……。詞でも「チューリップのアップリケ」とか「自由への長い旅」とかはっぴいえんどでバックをつけたのはあんまり好きじゃなかったな。さっきおっしゃったみたいに、あまりに散文的になっていて。
佐野◆朝のTVの「ヤング720」で加藤(和彦)さんと岡林さん二人で「手紙」とかやってたのを覚えてますね。
松本◆ボクの場合は松山猛さんよりも、北山修さんの方ですね。この人を越えないと先に行けないと思いましたね。すごい人だと思いました。ある意味で、頭上にある漬物石みたいな存在でしたね。
エイプリル・フールの時に「720(セブン・ツー・オー)」に出たときも……
佐野◆観ました、観ました。
松本◆観ました? すごいなそれ。(笑) 何回か出たから、どの回か分からないけど、司会の北山(修)さんが「さすがのオレもこれは出来ない」って言ってるのを横で聞いてて、すごい自信家なんだナーって思いましたね。北山修の詞はすごくいいんですよ、でも これは違うと思ったから乗り越えようとしたんだね。やっぱり、初期のフォークを欺瞞的に感じたんですね。丘があって、菩提樹があって、みんな仲良くしてるみたいなのがね。これじゃないものを作んなきゃまずいだろうって思いましたね。
佐野◆エンケンとか岡林さんとか早川さんには暗さがちゃんとあって、ダークサイドを観ているから、そこが中学生にとっては信用がおけたんでしょうね。(笑)それに、岡林さんのカリスマ性みたいなものには引きつけられますよ。今の人には分からないくらい「フォークの神様」でしたものね。今では例えようがないですものね。
松本◆本当に神様だった。いっしょにやっててそう思った。はっぴいえんどと岡林って、伝説みたいになってるけど、実質は3カ月ぐらいだったんじゃないかな。
佐野◆練習はしないという伝説がありましたけど、岡林さんのバックはいいですよね。
松本◆御苑スタジオでしつこく練習をやってたんですよ。自分たちの曲の練習より、岡林の方が多いとか文句言いつつ。(笑)
佐野◆あの頃の「コペルニクス的展開のすすめ」とか好きで、いまだにあのアレンジで演やったりしますよ。(笑)
それで「全日本フォークジャンボリー'70」の「12月の雨の日」を聴きまくってたんだけど、その内にはっぴいえんどの1stが出て、アイアン・バタフライとかフラワー・トラベリング・バンドの「サトリ」とかといっしょに、同級生だった山本恭司(BOW WOW)なんかと聴いてたんです。
それで、こんなのやりたいってことになって、同級生にここにもギターの(小豆沢)茂というのがいまして、ドラムセットは大変だから、これも同級生のエカ(小川功)にボンゴを叩かせて、頭脳警察スタイルで「春よ来い」とか演ってたんです。(笑)それをラジオ番組でいっしょになった時に大滝さんに聴かせちゃいましたけど。(笑)
それで、ドラム(周藤芳行)を入れて、エカにベースを買わせてロック・バンドの形式にしてはっぴいえんどや遠藤賢司のコピーをしてたんです。
松本◆バンド名は?
佐野◆WIND CITYという。
松本◆あはははは、直球ですね。(笑)
佐野◆恥ずかしくて、なかなか言えなかったんですけど、最近は開き直ってます。(笑)
○1971年、中津川フォークジャンボリー
★お伺いした松本邸では夕飯まで御馳走になり、佐野は大喜び。 |
佐野◆ボクは1971年の中津川フォークジャンボリーに、はっぴいえんどを観に行ったんです。
松本◆何回目の中津川ですか?
佐野◆3回目です。暴動があったときです。
松本◆そうすると、サブ・ステージですね。
佐野◆そこで、ライブアルバムの「は いからはくち」と「春よ来い」の間に「えーど、えーど」と叫んでいるのがボクなんです。(笑)まだ『風街ろまん』が出る前だったから、「抱きしめたい」とかが始っても、この曲は何なんだろうって思って聴いてました。
かぶり付きで見てたんですけど、「12月の雨の日」で大滝さんがEm→DのところをEm→F#m7で弾いていて「あれ、違う」ってビックリしたんですけど……
松本◆いやー、それは分からないけど、閃いたのかもしれないね。2回目に加川良が出て大スターになったんだよね。
佐野◆観客の側にいたから分かるんですけど、みんな勝手に騒ぎたくて、きっかけを待ってたんです。
松本◆(吉田)拓郎に聞いたら、あの暴動は「オレが先導したんだ」と言ってたけど。
佐野◆そうでした、そこにもいました。(笑)ガロとかシューベルツみたいなメジャー・レーベルには「帰れ、帰れ」ってみんなが言いだしたんですよ。ボクはそんなこと言わなくてもいいじゃないかと思ってたんですけど、そのうちスケジュールをレコード会社が仕切りだしてたんですよ。
丘の上の方にあったサブ・ステージでは乱魔堂やDEWや友部正人さんで盛り上がって、岡林さんも黒田征太郎さんとアコースティック・ギターでこっちのスタイルの方がバンドより良くて、観客が沸点に達したところではっぴいえんどだったんじゃないですかね。
松本◆サブ・ステージが終ってメイン・ステージでもやるはずだったんだけど、誰かが「暴動だ」って言うんだけど、最初はなんのことか分からなくてね。ステージの袖から外を見たら地平線に土煙が上がってて、まるで百姓一揆のようだったね。(笑)
佐野◆旗に火をつけちゃったんですね。ええじゃないかの世界でしたね。
松本◆ぱっと見たら、茂はギターを抱えて池の方に逃げてるし、ボクもとりあえずスネアだけ持って逃げたんじゃないかな。
佐野◆誰かで騒ぎたかったんですよね。
松本◆目標ははっぴいえんどじゃなくて岡林なんだよね。「岡林はどこ行った!」みたいなのは聞こえてきたね。そしたら、岡林は「残る」と言ったんだけど、周りの人がタクシーに乗せて連れ出したみたいだという情報が入ってきた。
佐野◆みんなお祭り騒ぎがしたかっただけのようにも見えましたけどね。
★はっぴいえんどのLPや『風のくわるてつと』など、たくさんサインをしてもらいました。 |
○風街とは
佐野◆高校時代にボクの周りには、はっぴいえんどのファンが多かったんですよ。きっと、宍道湖という湖のほとりにある松江という土地柄もあったと思うんですけどね。
URCレコードを扱ってるレコード店もなかったりしたんですけど、MGという喫茶店ではっぴいえんどやイッツ・ア・ビューティフル・デイがすごく流行ってて。
松本◆情報が早いですね。70年代の情報って口コミなんですよね。あれ以来、今までないな。
佐野◆田舎なんだけど、少数の中での情報は早かったのかな。
松本◆東京とあんまり差はないですね。70年代の不思議だな。
佐野◆モビー・グレープは日本盤がなかったから、さすがに田舎にはなかったですね。
松本◆あったら、好きになってますよ。
佐野◆そうでしょうね。
あのころ、東京というとYAMAHAでライト・ミュージック・コンテストとかで、カッコ悪かったんですよ。URCレコードだって関西でしたし、面白いのは京都とか関西エリアだったんですよ。
松本◆ああ、分かりますよ。ボクもあのころ京都にばっかり行ってたな。東京はファッションだけコピーしてたからね。
佐野◆それがダッサイ感じがして。YAMAHAのアンプの音って固くて、ザラっとしたところがなかったでしょ。ツルっとしたあの感じが東京だったんです。その東京で信用できるのは、オレたちだけが知ってるはっぴいえんどだったりするわけで、それを分かち合ってるのが楽しかったりしたんです。
松本◆京都は同志社と京大が大きいと思う。あの時期、なんで東京の人間の高田渡があそこにいたんだろう? あれは謎だな。最初にはっぴいえんどで京都に行ったときに、誰かが「面白い奴に会わせる」と言って高田渡を連れてきたんだよね。
佐野◆吉祥寺の飲み屋でぱったり出会っても、場所に対する馴染み方がすごいですよ。何処にいたらいいかとか、どれくらい自分を出したらいいかとか、動物的勘がすごいですね。
松本◆京都の「イノダ」という喫茶店に早朝7時ぐらいに待ち合わせて、そこで詩の話をしたら意気投合してね。彼の部屋に行ったら「お茶っ葉がないから」と言って白湯が出てきてね。(笑)
佐野◆だいぶ演出入ってますね。(笑)
僕は7歳まで桜台にいたんです。だから、はっぴいえんどが好きだったのは、もちろんサウンドもあるんですけど、松本さんの言う失われた風景みたいなものが分かったという……。「以前の東京」と聞いたときに、ああ、なるほどと思ったんです。子供の時のトロリー・バスとか路面電車も覚えてますし。
で、高校を卒業して東京に出てきたら、変わってるとは思ったけど、本当に路面電車がなくなってるし、やっぱりショックでしたね。
1972年にNHKのラジオで松本さんと渡辺武信さんの対談番組があって(ここにそのときのテープもあるんですけど)、そこで話されていた風街について、なるほど松本さんの東京オリンピック以前の東京って言ってるのはこのことなんだと納得したりしましたね。
松本◆ああ、体験として持ってたんだ。
佐野◆それで、松江に行ってしまったから、故郷が二つあるという感じですね。
松本◆ボクも東京なんだけど、母親の実家が群馬県の伊香保温泉というところで、子どもの頃はひと夏まるごと、おじいちゃんとおばあちゃんのいる実家にあずけられちゃってたんです。だから、子供の時は東京の真夏って知らないのね。
だから、「夏なんです」って純粋な都会っ子には書けないと思うんです。
佐野◆そうかー、「夏なんです」は伊香保だったのかー。(笑)真相を知ると、ちょっと辛いものがあったりして。(笑)それぞれに、思いがありますからね。
松本◆伊香保って言っても、石段だけじゃなくて、鎮守の森があったりするんですよ。温泉街も好きなんですけどね。だから、佐野さんの故郷が二つあるじゃないけど、自分の中では田舎と都会がバランス取れてるんですね。
佐野◆そうなんですか。
★松本氏のHPで失敗談として語られていた、間違って「はっぴいえとど」と書かれた『風街ろまん』の貴重なサイン。 |
松本◆「風街ろまん」を作って、これ以上のものは作れないと思ったね。そんなことって、あんまりないよね。普通、いいものが出来ても、すぐに忘れちゃうのにね。
佐野◆はっぴいえんどは難しくて出来ない曲があるんですよ。
松本◆「びんぼう」なんか難しいんじゃない?
佐野◆でも、WIND CITYで「びんぼう」はよく演ってました。「夏なんです」はこんな感じですよね。(持ってきたギターを弾く)
松本◆ちょっと違うかな。(笑)
佐野◆ちょっと違いますね。(笑)(チューニングを直す)
ディストーションもかかるんですよ。(「春よ来い」のサワリを弾く)なんちゃってね。(笑)
松本◆茂モドキ。(笑)
佐野◆71年の中津川のライブでの「春よ来い」のエンディングが好きだったんですよ。(と、エンディングのフレーズを弾く)
松本◆これが、はっぴいえんど時代の『風街ろまん』用の作詞ノートです。
佐野◆この名前が書いてある表はなんですか?
松本◆細野、茂……、あっトランプの採点表。(笑)
佐野◆あはははは。
★1999年2月22日、松本隆邸にて/この対談は2に続きます
「すみや」のHPでは、佐野がはっぴいえんどにいたるまでを、さらに事細かに語っています。http://mediamax.sumiya.co.jp/