![]() 1999/3/20
○はっぴいえんどにいたるまで
佐野◆それで、中学生の時にエンケンとか岡林さん、早川義夫さんが好きだったわけです。 松本◆はっぴいえんどの中でボクだけ早川義夫が理解出来たんですよ。岡林信康も理解出来た。細野さんとかは理解してても、「してない」と言いきっちゃうから。バックをやるのは、純粋にお金のためだと言いますよね。ボクは心情的に、岡林のヘタウマな世界がいいなっていうか……。詞でも「チューリップのアップリケ」とか「自由への長い旅」とかはっぴいえんどでバックをつけたのはあんまり好きじゃなかったな。さっきおっしゃったみたいに、あまりに散文的になっていて。 佐野◆朝のTVの「ヤング720」で加藤(和彦)さんと岡林さん二人で「手紙」とかやってたのを覚えてますね。
松本◆ボクの場合は松山猛さんよりも、北山修さんの方ですね。この人を越えないと先に行けないと思いましたね。すごい人だと思いました。ある意味で、頭上にある漬物石みたいな存在でしたね。 佐野◆観ました、観ました。 松本◆観ました? すごいなそれ。(笑) 何回か出たから、どの回か分からないけど、司会の北山(修)さんが「さすがのオレもこれは出来ない」って言ってるのを横で聞いてて、すごい自信家なんだナーって思いましたね。北山修の詞はすごくいいんですよ、でも これは違うと思ったから乗り越えようとしたんだね。やっぱり、初期のフォークを欺瞞的に感じたんですね。丘があって、菩提樹があって、みんな仲良くしてるみたいなのがね。これじゃないものを作んなきゃまずいだろうって思いましたね。 佐野◆エンケンとか岡林さんとか早川さんには暗さがちゃんとあって、ダークサイドを観ているから、そこが中学生にとっては信用がおけたんでしょうね。(笑)それに、岡林さんのカリスマ性みたいなものには引きつけられますよ。今の人には分からないくらい「フォークの神様」でしたものね。今では例えようがないですものね。 松本◆本当に神様だった。いっしょにやっててそう思った。はっぴいえんどと岡林って、伝説みたいになってるけど、実質は3カ月ぐらいだったんじゃないかな。 佐野◆練習はしないという伝説がありましたけど、岡林さんのバックはいいですよね。 松本◆御苑スタジオでしつこく練習をやってたんですよ。自分たちの曲の練習より、岡林の方が多いとか文句言いつつ。(笑)
佐野◆あの頃の「コペルニクス的展開のすすめ」とか好きで、いまだにあのアレンジで演やったりしますよ。(笑) 松本◆バンド名は? 佐野◆WIND CITYという。
松本◆あはははは、直球ですね。(笑)
○1971年、中津川フォークジャンボリー
松本◆何回目の中津川ですか? 佐野◆3回目です。暴動があったときです。 松本◆そうすると、サブ・ステージですね。
佐野◆そこで、ライブアルバムの「は いからはくち」と「春よ来い」の間に「えーど、えーど」と叫んでいるのがボクなんです。(笑)まだ『風街ろまん』が出る前だったから、「抱きしめたい」とかが始っても、この曲は何なんだろうって思って聴いてました。 松本◆いやー、それは分からないけど、閃いたのかもしれないね。2回目に加川良が出て大スターになったんだよね。 佐野◆観客の側にいたから分かるんですけど、みんな勝手に騒ぎたくて、きっかけを待ってたんです。 松本◆(吉田)拓郎に聞いたら、あの暴動は「オレが先導したんだ」と言ってたけど。
佐野◆そうでした、そこにもいました。(笑)ガロとかシューベルツみたいなメジャー・レーベルには「帰れ、帰れ」ってみんなが言いだしたんですよ。ボクはそんなこと言わなくてもいいじゃないかと思ってたんですけど、そのうちスケジュールをレコード会社が仕切りだしてたんですよ。 松本◆サブ・ステージが終ってメイン・ステージでもやるはずだったんだけど、誰かが「暴動だ」って言うんだけど、最初はなんのことか分からなくてね。ステージの袖から外を見たら地平線に土煙が上がってて、まるで百姓一揆のようだったね。(笑)
佐野◆旗に火をつけちゃったんですね。ええじゃないかの世界でしたね。 佐野◆誰かで騒ぎたかったんですよね。 松本◆目標ははっぴいえんどじゃなくて岡林なんだよね。「岡林はどこ行った!」みたいなのは聞こえてきたね。そしたら、岡林は「残る」と言ったんだけど、周りの人がタクシーに乗せて連れ出したみたいだという情報が入ってきた。 佐野◆みんなお祭り騒ぎがしたかっただけのようにも見えましたけどね。
佐野◆高校時代にボクの周りには、はっぴいえんどのファンが多かったんですよ。きっと、宍道湖という湖のほとりにある松江という土地柄もあったと思うんですけどね。 URCレコードを扱ってるレコード店もなかったりしたんですけど、MGという喫茶店ではっぴいえんどやイッツ・ア・ビューティフル・デイがすごく流行ってて。 松本◆情報が早いですね。70年代の情報って口コミなんですよね。あれ以来、今までないな。 佐野◆田舎なんだけど、少数の中での情報は早かったのかな。 松本◆東京とあんまり差はないですね。70年代の不思議だな。 佐野◆モビー・グレープは日本盤がなかったから、さすがに田舎にはなかったですね。 松本◆あったら、好きになってますよ。
佐野◆そうでしょうね。 松本◆ああ、分かりますよ。ボクもあのころ京都にばっかり行ってたな。東京はファッションだけコピーしてたからね。 佐野◆それがダッサイ感じがして。YAMAHAのアンプの音って固くて、ザラっとしたところがなかったでしょ。ツルっとしたあの感じが東京だったんです。その東京で信用できるのは、オレたちだけが知ってるはっぴいえんどだったりするわけで、それを分かち合ってるのが楽しかったりしたんです。 松本◆京都は同志社と京大が大きいと思う。あの時期、なんで東京の人間の高田渡があそこにいたんだろう? あれは謎だな。最初にはっぴいえんどで京都に行ったときに、誰かが「面白い奴に会わせる」と言って高田渡を連れてきたんだよね。 佐野◆吉祥寺の飲み屋でぱったり出会っても、場所に対する馴染み方がすごいですよ。何処にいたらいいかとか、どれくらい自分を出したらいいかとか、動物的勘がすごいですね。 松本◆京都の「イノダ」という喫茶店に早朝7時ぐらいに待ち合わせて、そこで詩の話をしたら意気投合してね。彼の部屋に行ったら「お茶っ葉がないから」と言って白湯が出てきてね。(笑)
佐野◆だいぶ演出入ってますね。(笑) 松本◆ああ、体験として持ってたんだ。 佐野◆それで、松江に行ってしまったから、故郷が二つあるという感じですね。
松本◆ボクも東京なんだけど、母親の実家が群馬県の伊香保温泉というところで、子どもの頃はひと夏まるごと、おじいちゃんとおばあちゃんのいる実家にあずけられちゃってたんです。だから、子供の時は東京の真夏って知らないのね。 佐野◆そうかー、「夏なんです」は伊香保だったのかー。(笑)真相を知ると、ちょっと辛いものがあったりして。(笑)それぞれに、思いがありますからね。 松本◆伊香保って言っても、石段だけじゃなくて、鎮守の森があったりするんですよ。温泉街も好きなんですけどね。だから、佐野さんの故郷が二つあるじゃないけど、自分の中では田舎と都会がバランス取れてるんですね。 佐野◆そうなんですか。
佐野◆はっぴいえんどは難しくて出来ない曲があるんですよ。 松本◆「びんぼう」なんか難しいんじゃない? 佐野◆でも、WIND CITYで「びんぼう」はよく演ってました。「夏なんです」はこんな感じですよね。(持ってきたギターを弾く) 松本◆ちょっと違うかな。(笑)
佐野◆ちょっと違いますね。(笑)(チューニングを直す) 松本◆茂モドキ。(笑) 佐野◆71年の中津川のライブでの「春よ来い」のエンディングが好きだったんですよ。(と、エンディングのフレーズを弾く) 松本◆これが、はっぴいえんど時代の『風街ろまん』用の作詞ノートです。 佐野◆この名前が書いてある表はなんですか? 松本◆細野、茂……、あっトランプの採点表。(笑)
佐野◆あはははは。
★1999年2月22日、松本隆邸にて/この対談は2に続きます |