雑記帳 二〇十七年 睦月 如月 弥生 卯月 皐月 水無月 文月 葉月 長月 神在月 霜月 極月
二〇十六年 睦月 如月 弥生 卯月 皐月 水無月 文月 葉月 長月 神在月 霜月 極月
二〇十五年 睦月 如月 弥生 卯月 皐月 水無月 文月 葉月 長月 神在月 霜月 極月
二〇十四年 睦月 如月 弥生 卯月 皐月 水無月 文月 葉月 長月 神在月 霜月 極月
二〇十三年 睦月 如月 弥生 卯月 皐月 水無月 文月 葉月 長月 神在月 霜月 極月
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二〇〇六年 睦月 如月 弥生 卯月 皐月 水無月 文月 葉月 長月 神在月 霜月 極月
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橘井堂二〇十五年文月七日

NHK BS時代劇、浅田次郎原作「一路」の撮影も終わり、ちょっと一息…といきたいところだけど、あれやこれや。
次のドラマの衣装合わせや、バンドの方でも新たな企画でレコーディング・スタジオに入ったり…。
加えて江戸川乱歩作品を読み解くテレビ番組で、乱歩邸に行ったり。
そうだ、対談連載中の集英社「kotoba」では「食べる」ことをテーマに詩人、小説家の蜂飼耳さんとお会いした。
未読のまま積んであったエッセイ集「おいしそうな草」をそのタイトルから何気なく手に取り、ページを繰り始めたら止まらない。
その文章に心奪われ、わしづかみにされた。
次々と蜂飼耳さんの作品を読み進める。
なんたる観察力、洞察力、そして正直な眼差し。
なによりも、やさしい言葉遣いで深遠な世界へと誘う。
そうか、だから「うきわねこ」のような童話もお書きになるのだな。
「食べる」ことについて、そんなに言及していないとご本人はおっしゃるのだが、具体的な食べ物のことではなくとも、「身体に取り入れる」という感覚においては「言葉」も同様、「食べる」ことなのかもしれない。
「排泄する」ということとも対になっているか・・・。

「言葉」にも毒になるものと、滋養になるものとがあるのだろうな。
「良い言葉」と「悪い言葉」。
そんなに単純に見分けられるかな?
美味しそうな毒キノコもあるし、見た目は悪くても美味しいものはいっぱいある。

「言葉」は、それぞれの人の「身体」のなかに入っている何かと、摂取されたものとが溶け合って、滋養となり、あるいは病を呼び寄せ、そして解毒することも出来るのだろう。
「薬」と「毒」は表裏一体。

最近読んだ手記にこう記してあったのが印象に残る。
「言葉は麻薬だと思った」
また、著者はこうも言う。
「もはや僕には言葉しか残らなかった」
彼は自分に問いかける。
「今、お前のいるその場所は、お前が自分で見つけた場所なのか?それとも周りに用意してもらった”籠”なのか」
彼は少年時代に連続児童殺害事件を起こし、与えられた場にいつづけることができなくなった。
そして、後に社会に復帰し、その場の美しさに気づく。
「-自分が奪ったものはこれなんだ- それは『何でもない光景』だった」と。

この手記の著者が起こした事件のことをまったく知らず、見知らぬ小説として読んだとしたら…と、想像する。
あるいは、ゴーストライターによって書かれたものであったならとも。 「本当」と「嘘」、「本人」ではなく「他人」…どちらか知り得ないとしても、綴られていることは同じ。
綴られていることを黙々と追う。
彼は記す。
「僕には”食べる”行為が煩わしいったらない。うまく言えないが、”食事をしている"というよりも、僕が”食事という行為に食べられている"という気がする」
食事をしている煩わしい時間が、他のことをする時間を、人生という時間に”食べられている”時間と感じるのだろうか?
蜂飼耳さんの詩「食うものは食われる夜」が頭をよぎる。
「食べる」ということが、「身体」を作ることに間違いはないとしたら、どうやら、「食べる」ことをどう受け止めるかが、鍵になりそうだ。
食べていいものといけないものは、「毒」や「薬」として分けられるものでもないからな。
宗教や国の法律、道徳観によって摂取するものは規制されることもあるし。
誰かが言ってた。
「宗教は被害者のいない詐欺である」
「法律」や「道徳」に置き換えたら、どう感じるかな?
…「食べる」か。
「食う」か「食われる」か…。
それを感じる「身体」。

「虚構」と「現実」…これを感じる身体も同じ。
そして、それもまた、どちらも「毒」にもなり「薬」にもなる。

与えられた「食物」「場」をどう受け止めるか。

Eテレ、ハートネットTVでナレーションを務めさせていただいた「耐えてなぐさめて生きる-能楽師ワキ方宝生閑-」81歳、人間国宝の宝生閑さんは病と闘いながら、能舞台に立つ。
能楽師、ワキ方の家に生まれた以上、「やるしかないんだから」と己の運命を受け入れ、精進し続ける。
そして、観る人々を救い、なぐさめる。
「薬」だ。
けれど、能舞台の物語りに登場する者たちに救いのあるものは少ない。
今も、現実に起こる悲惨な事件や事故は同様だ。
そのなかには信じがたい猟奇的な殺人事件もあり、記憶に残る。
手記の著者もそうだ。
彼は司法の下、罪を償えども、犯したことが許されることはない。
だが、フィクションの世界では裁かれることは少ない。
それらは、行われることは同じだとしても…例えばサドの「悪徳の栄え」、マゾッホの「毛皮のヴィーナス」、ナボコフの「ロリータ」ならば、異端文学の金字塔として読まれるだけであろうに、そうはならない。
小説のなかの出来事と現実は違う…という前提。
むしろそれは甘美な「毒」として認知される。
江戸川乱歩を読み返せば、猟奇犯罪にあふれている。
そこには罪なき少年少女も登場する。
彼らは、しばしば誘拐される。
怪人二十面相に…明智小五郎探偵は、警察と手を組みながらも、あくまでも私立探偵で、目の前に犯人がいてもわざとやり過ごすことがある。明智と二十面相の「善」と「悪」の入れ子構造。
そこから学ぶ。
乱歩はフィクションを借りて、そのことを綴るが、「芋虫」は発禁、戦時下では乱歩作品は絶版となる。
これは何を意味するのか?
実際の犯罪と小説は別のものである前提がありながら、司法の下に裁かれた過去の事実。
一方、著者が少年時に犯した殺人事件故、死刑にはならず、司法の下、罪を償った後、社会で生きなければならないという事実。
そうして産み落とされた言葉たち。

蜂飼耳さんのまなざし、猟奇的殺人を犯した者の自己との対話、宝生閑さんの佇まい、江戸川乱歩の戦前、戦中、戦後の身の置き方…。

松任谷由実の「砂の惑星」が好きで繰り返し聴いていたという手記の著者。
僕が出演した「私の運命」というドラマの主題歌として書き下ろされた作品だけに、まったくの他人事ではなく感じる。
俳優の性か、こう想像する。
「もしも、自分が、彼であったならば」
自分だって、きっと同じことをしたかもしれない。
与えられた世界を受け入れるのか、否か…。
境界線を引けることではないのだろう。
明智探偵のように知恵をしぼらねばなるまい。
怪人二十面相なら、どうする?
明智は「青銅の魔神」のなかで二十面相にこう言う。
「さすがに戦争中は悪事をはたらかなかったようだが、戦争がすむと、またしても昔のくせをだしたね」
…二十面相も、戦時中は戦地に赴いていたのだろうか?
戦争での殺人は罪ではなく、平和な社会での殺人は罪。
「戦争と平和」…いかにあるべきか…答えが出るとしたら、とっくに歴史は答えていただろうけれど。

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★蜂飼耳さんと。


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★内海利勝さんと。


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★乱歩邸の蔵。

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