二〇十五年文月七日
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NHK BS時代劇、浅田次郎原作「一路」の撮影も終わり、ちょっと一息…といきたいところだけど、あれやこれや。
次のドラマの衣装合わせや、バンドの方でも新たな企画でレコーディング・スタジオに入ったり…。
加えて江戸川乱歩作品を読み解くテレビ番組で、乱歩邸に行ったり。
そうだ、対談連載中の集英社「kotoba」では「食べる」ことをテーマに詩人、小説家の蜂飼耳さんとお会いした。
未読のまま積んであったエッセイ集「おいしそうな草」をそのタイトルから何気なく手に取り、ページを繰り始めたら止まらない。
その文章に心奪われ、わしづかみにされた。
次々と蜂飼耳さんの作品を読み進める。
なんたる観察力、洞察力、そして正直な眼差し。
なによりも、やさしい言葉遣いで深遠な世界へと誘う。
そうか、だから「うきわねこ」のような童話もお書きになるのだな。
「食べる」ことについて、そんなに言及していないとご本人はおっしゃるのだが、具体的な食べ物のことではなくとも、「身体に取り入れる」という感覚においては「言葉」も同様、「食べる」ことなのかもしれない。
「排泄する」ということとも対になっているか・・・。
「言葉」にも毒になるものと、滋養になるものとがあるのだろうな。
「良い言葉」と「悪い言葉」。
そんなに単純に見分けられるかな?
美味しそうな毒キノコもあるし、見た目は悪くても美味しいものはいっぱいある。
「言葉」は、それぞれの人の「身体」のなかに入っている何かと、摂取されたものとが溶け合って、滋養となり、あるいは病を呼び寄せ、そして解毒することも出来るのだろう。
「薬」と「毒」は表裏一体。
最近読んだ手記にこう記してあったのが印象に残る。
「言葉は麻薬だと思った」
また、著者はこうも言う。
「もはや僕には言葉しか残らなかった」
彼は自分に問いかける。
「今、お前のいるその場所は、お前が自分で見つけた場所なのか?それとも周りに用意してもらった”籠”なのか」
彼は少年時代に連続児童殺害事件を起こし、与えられた場にいつづけることができなくなった。
そして、後に社会に復帰し、その場の美しさに気づく。
「-自分が奪ったものはこれなんだ- それは『何でもない光景』だった」と。
この手記の著者が起こした事件のことをまったく知らず、見知らぬ小説として読んだとしたら…と、想像する。
あるいは、ゴーストライターによって書かれたものであったならとも。
「本当」と「嘘」、「本人」ではなく「他人」…どちらか知り得ないとしても、綴られていることは同じ。
綴られていることを黙々と追う。
彼は記す。
「僕には”食べる”行為が煩わしいったらない。うまく言えないが、”食事をしている"というよりも、僕が”食事という行為に食べられている"という気がする」
食事をしている煩わしい時間が、他のことをする時間を、人生という時間に”食べられている”時間と感じるのだろうか?
蜂飼耳さんの詩「食うものは食われる夜」が頭をよぎる。
「食べる」ということが、「身体」を作ることに間違いはないとしたら、どうやら、「食べる」ことをどう受け止めるかが、鍵になりそうだ。
食べていいものといけないものは、「毒」や「薬」として分けられるものでもないからな。
宗教や国の法律、道徳観によって摂取するものは規制されることもあるし。
誰かが言ってた。
「宗教は被害者のいない詐欺である」
「法律」や「道徳」に置き換えたら、どう感じるかな?
…「食べる」か。
「食う」か「食われる」か…。
それを感じる「身体」。
「虚構」と「現実」…これを感じる身体も同じ。
そして、それもまた、どちらも「毒」にもなり「薬」にもなる。
与えられた「食物」「場」をどう受け止めるか。
Eテレ、ハートネットTVでナレーションを務めさせていただいた「耐えてなぐさめて生きる-能楽師ワキ方宝生閑-」81歳、人間国宝の宝生閑さんは病と闘いながら、能舞台に立つ。
能楽師、ワキ方の家に生まれた以上、「やるしかないんだから」と己の運命を受け入れ、精進し続ける。
そして、観る人々を救い、なぐさめる。
「薬」だ。
けれど、能舞台の物語りに登場する者たちに救いのあるものは少ない。
今も、現実に起こる悲惨な事件や事故は同様だ。
そのなかには信じがたい猟奇的な殺人事件もあり、記憶に残る。
手記の著者もそうだ。
彼は司法の下、罪を償えども、犯したことが許されることはない。
だが、フィクションの世界では裁かれることは少ない。
それらは、行われることは同じだとしても…例えばサドの「悪徳の栄え」、マゾッホの「毛皮のヴィーナス」、ナボコフの「ロリータ」ならば、異端文学の金字塔として読まれるだけであろうに、そうはならない。
小説のなかの出来事と現実は違う…という前提。
むしろそれは甘美な「毒」として認知される。
江戸川乱歩を読み返せば、猟奇犯罪にあふれている。
そこには罪なき少年少女も登場する。
彼らは、しばしば誘拐される。
怪人二十面相に…明智小五郎探偵は、警察と手を組みながらも、あくまでも私立探偵で、目の前に犯人がいてもわざとやり過ごすことがある。明智と二十面相の「善」と「悪」の入れ子構造。
そこから学ぶ。
乱歩はフィクションを借りて、そのことを綴るが、「芋虫」は発禁、戦時下では乱歩作品は絶版となる。
これは何を意味するのか?
実際の犯罪と小説は別のものである前提がありながら、司法の下に裁かれた過去の事実。
一方、著者が少年時に犯した殺人事件故、死刑にはならず、司法の下、罪を償った後、社会で生きなければならないという事実。
そうして産み落とされた言葉たち。
蜂飼耳さんのまなざし、猟奇的殺人を犯した者の自己との対話、宝生閑さんの佇まい、江戸川乱歩の戦前、戦中、戦後の身の置き方…。
松任谷由実の「砂の惑星」が好きで繰り返し聴いていたという手記の著者。
僕が出演した「私の運命」というドラマの主題歌として書き下ろされた作品だけに、まったくの他人事ではなく感じる。
俳優の性か、こう想像する。
「もしも、自分が、彼であったならば」
自分だって、きっと同じことをしたかもしれない。
与えられた世界を受け入れるのか、否か…。
境界線を引けることではないのだろう。
明智探偵のように知恵をしぼらねばなるまい。
怪人二十面相なら、どうする?
明智は「青銅の魔神」のなかで二十面相にこう言う。
「さすがに戦争中は悪事をはたらかなかったようだが、戦争がすむと、またしても昔のくせをだしたね」
…二十面相も、戦時中は戦地に赴いていたのだろうか?
戦争での殺人は罪ではなく、平和な社会での殺人は罪。
「戦争と平和」…いかにあるべきか…答えが出るとしたら、とっくに歴史は答えていただろうけれど。
★蜂飼耳さんと。
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★内海利勝さんと。
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★乱歩邸の蔵。
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